「セバスチャンさぁぁん!また除草剤が芝生にかかって全滅しちゃいました!!ごめんなさああい!!」
まずはフィニが泣きながら引っ付いた。
「おいセバスチャン、あのオーブン壊れてんじゃねーのかぁ?何で鳥が黒焦げになんだよ」
次にバルドが黒焦げになったまま、アフロヘアーも気にすることなく文句を言いに来る。
「わわ、ワタシ、間違ってティーカップに蛍光漂白剤ぶっかけてしまったですだー!!」
最後にメイリンが割れた眼鏡のまま抱きついた。
小鳥のさえずりが聴こえる中、エントランスホールでは、同じように駒鳥のさえずりが聴こえる。階段上からそれを見下ろしていた客間女中の・エルガーは、ぼんやりと思う。なかなか良い例えかもしれない。
庭師のフィニ・料理人のバルド・そして同じ女中であるメイリン。
その三人に泣きつかれて身動きが取れなかったらしいけど、ついに怒りが頂点まで来たみたいだ。
「一度に喋らないでください!」
全員を一喝して、そして引き剥がした人物こそがこの屋敷の執事だ。
セバスチャン・ミカエリス。確か、そんなフルネームだったはず。この屋敷で唯一の、完璧な執事だ。
全てにおいて仕事が速く、も一目置いている。…… 「執事」 以外の点でも。
セバスチャンは深い溜息を付いたあと、一息で言いのけた。
「フィニ。すぐに散布機を買い替えなさい。それから仕方が無いので芝種を買ってくるように。早くしないと坊ちゃんに怒られますよ」
「はいっ!!」
「バルドは身なりより、まずオーブンを掃除すること。さもないとそのふざけたアフロを毟り取りますよ」
「うわあぁ分かったよ!!」
「メイリン、仕方が無いので駄目になったティーカップは捨ててしまいなさい。すぐに新しいものを手配するように」
「分かっただよ!」
てきぱきとした指示を受けた三人の使用人は、すぐさま軽い足取りで四方八方へ走っていった。
駄目な人たちの扱い方まで上手いとは、感服ものだ。
……だけど、と心の中で続けた。だけど、扱っている様子が楽しそうに見えるのは気のせいだろうか?
「」 こっちを向いて、怖いくらいの笑みを浮かべた。 「あなたは何をしてるんですか?」
きょとんとしたまま、答える。
「えーと……強いて言うなら、バードウォッチングです」
「私達を鳥に見立てる前に仕事をなさい」
有無を言わさない口調で一喝されてしまった。何故わたしが怒られなきゃならないのだろう、と不思議に思ってしまったではないか。
あの人たちとは違って、自分は結構有能な女中だと思っている。それは目の前の執事も理解しているだろうし、この屋敷の主人であるシエル・ファントムハイヴも知っていた。
ちゃんとした 『メイドの技能認定試験』 をクリアしたのもあるけど、他にも秘密があったからだ。
には、いや、正確に言えばと執事である彼には、他に口外してはいけない秘密がある。誰しもが『架空の存在』だと信じて疑わない、秘密だ。
「セバスさん」 愛称に 「さん」 を付けて呼ぶ。 「お言葉ですが、与えられた仕事は全て終わりました」
階段の下に突っ立っていたセバスチャンは一瞬驚いた顔をしたが、 「ほう」
と興味深げに呟いた。 「さすが、他の使用人とは一味違いますね」
「そうでしょう?」 と微笑んで、階段の手すりに手を置く。 「一味どころか、何味も違いますよ」
セバスチャンの言葉も待たずに、そのまま勢いをつけて飛び越えた。しかし重力を覚えるどころか、万有引力など始めから無いかのように、ゆっくりと地面まで到達できた。もちろんロンドンにも重力は存在しているが、にはあまり関係がない。重力に意識を向けてさえいれば、まるで宇宙空間にいるような感覚を楽しむことすら出来る。
着地すると同時に両手を上に挙げてみた。まるで新体操競技を終えた選手のようだ。ふわりと膨らんだメイド服のスカートが元通りに戻る。
「まったくあなたは、何度言えば分かるんですか」 呆れたように溜息を疲れてしまった。 「人間には出来ないことをするんじゃありません」
「大丈夫! ばれなければ、いいのです」
頭に手を当てながら答える。腰まで伸びた髪を整え、次に頭の上で結ばれた黒いリボンを調える。
「 『ばれなければ』 という問題ではないですよ。あなたが人間ではないことが知られたら、同じ人間ではない私までやりづらくて仕方がありません」
疲れたと言わんばかりに、額に手を当てたセバスチャンをせせら笑った。
「人間は 『目の前で喋る生き物は人間以外にありえない』 という定義を持ってまますから、大丈夫ですよ」
リボン曲がってませんか? と聞くと、顔をしかめたまま、の頭に手をやる。見えないが、一度リボンを解いた感触を得た。慣れた手つきで結び直して、丁寧にも整えてくれる。
出来上がったようなので、手で触ってみた。左右のリボンの長さも対称になっていて、まるで始めから結ばれた状態で売られていたかのように美しいことが分かった。さすがセバスさん、と微笑んだ。
「悪魔って器用なんですね」
「天使が不器用なだけです」
それが何故か褒め言葉に聴こえて、は微笑む。
「セバスさんはこれから何をするんですか?」
首を傾げて訊ねてみると、セバスチャンは何処から出したのか、懐中時計を開いた。そんなものを持っていないは、大きな掛け時計を見る。もう2時が近づいていた。
「そうですね」 思案するように上を向く。 「一度あのバカ共の様子を見て、アフタヌーンティーの準備をしなければ」
「じゃあ3時まで私は休憩です」 有無を言わさない口調を発してやった。
シエルの世話をしているセバスチャンに付いて行くのが、の楽しみだった。彼のてきぱきとした手さばきを観察したいのもあったが、何より彼女は屋敷の主人をとても気に入っている。もっとも、セバスチャンの手伝いをしつつ、シエルとティータイムを楽しむだけなので、邪魔になることは無い。だからだろう、便乗しても何も言われることはなかった。
「休憩、ですか」 ファントムハイヴ家の執事は顔をしかめる。 「どうせならメイリンの手伝いでもしたらどうですか?」
一瞬きょとんとしてしまったが、すぐに意地の悪い笑みを作る。そしてセバスチャンの顔に一層近づいてやった。
「天使だからって、全ての人間の救いに応えるとは限らないわ」
おそらく目の前の彼も気付いているだろう。が敬語をやめたときは、我儘を言うときだと。
「じゃあ、休憩を頂きます」 セバスさん、あとは頑張ってくださいね。
勝手に会話を終了して、再び階段を上り始める。
背後でセバスチャンが呆れながら溜息をつく姿を想像して、思わず含み笑いをしてしまった。
午後2時15分。
勝手に休憩を取っているは廊下を歩いていたが、ぴたりと立ち止まり、暇だとばかりに大きく伸びをした。
1人で歩くにはとても大きな廊下は、相変わらず埃1つ落ちていない。丁度隣にある窓には、曇り1つ付いていない。
さすが貴族と思う傍らで、誇らしげに頷く。さすがわたし、仕事が速い上に丁寧だ。
窓の外に広がる景色は太陽の光で燦々と照らされていて、まるで聖書の一部分にも思える。空は雲ひとつ無く、深い青は海と同化したがっているようだった。裏庭に植えられた木々も長閑に葉を揺らしている。
たった一つ、残念なのは、裏庭の大半を占めている芝生の色が冴えない。元気が無いのは此処から見ても明らかだった。
「芝生に除草剤をかけてしまった」 とフィニが言っていたが、あそこがその現場なのか。思わず手を合わせてしまった。次は庭師に恵まれますように。
「今日も屋根の上に登ろうかな」
ゆったりとした口調で呟きながら、同じような速度で窓に近づく。外から裏庭を丹念に見て回ったが、フィニは居ないみたいだ。恐らく芝種を買いに行っているのだろう。確認するように頷いた。手際よく窓を開けて、そのまま身体を屋敷の外へ放り出した。それでも手は離すことなく、窓枠にぶら下がった状態になる。誰かに見られる前に上りきろう。そう考えると同時に身体が空に向かって浮かび始めた。ふわりと重力に逆らうように身体が舞い上がり、宙に浮く感覚に酔いしれる。そのまま屋敷の上までたどり着くと、再び意識を集中して屋根に降り立つ。
何度も屋根上に登ったことはあるが、その度に、遥か森の先に位置する街まで一望でき、は改めて屋敷の大きさを実感する。
「さすがはシエル・ファントムハイヴですね」
初めて会ったときから、さほど印象は変わっていない。しかしシエルの人間性が垣間見えるたびに、は身体が震えるような感覚に襲われる。恐怖ではない。好奇心だ。
12歳という年齢に相応しい風貌をしているのに、普通の子供とは違う享楽で楽しんでいる。その享楽はロンドン中の殆どが体験したことのないもので、人間では無いすら知らない世界だった。「女王の番犬」という異名を持って、「裏社会」を整理するのがファントムハイヴ家だとしたら、現当主である彼はどれほどの能力を持っているのだろう。そう思ったら、ますます好奇心が膨らんでしまう。それでも普段は子供ながらに我儘や悪戯をしでかすのだから、面白い以外の何者でもない。
そういえば。
「この下って、シエルの書斎だっけ?」
屋根から下を覗き込む。窓の場所からして、の考えは当たっていたみたいだ。
まだアフタヌーンティーまで30分はあるはず。だとすれば仕事中だろうか。
「……聴こえるかな」
呟いた声は風に乗って消えていった。
胸に手をあてて、気持ちを落ち着ける。
呼吸をリズムと合わせ、何度か深呼吸をした。
擦れないように一度咳をして、思い切り息を吸い込んだ。
震わせながら声を発する。腹部に当てていた手を開き始める。歌い始めたのは、グノーが作曲したアヴェ・マリアだ。
を始めとした天使達は歌が好きで、得意でもある。一番自信があるのがアヴェ・マリアで、何ヶ国語もの歌詞を暗記している、唯一の曲だった。別名
「天使祝詞」 と呼ばれるこの曲は人間界でもクリスマスなどに合唱されるらしいが、天使の祝福と題されただけに、おそらく自分達のほうが上手いだろうと自負していた。現に屋敷へ来てから何度も唄を歌っているが、アヴェ・マリア以上の歌の賞賛はまだ得ていない。
時には目を閉じながら、時には視線を上げながら、ラテン語の祝詞を紡いでいく。声を張りながら、屋外はおろか屋内にまで響かせてやろうと思案する。
途中、真下の窓が開いた音が聴こえてきた。
その音が嬉しくなって、少し声量を落とした。シエルが窓を開けたんだと瞬時に分かる。
が外で歌うと、必ず書斎や寝室の窓が開かれることを知っていた。感想は聞いたことが無いが、どうやら聴き入ってくれているらしい。はじめは 「ねえシエル、どうでした?」 と感想を求めていたが、次第にそれをやめた。わざわざ窓を開けてまで聴いてくれているのだから、求めなくても感想は分かっているつもりだ。
数分間、聖母マリアへの祈願と天使の祝福を心を込めて歌った。
窓の向こうで聴いているだろう屋敷の主人を思い浮かべながら、声を風に乗せた。
歌い終わると、満面に微笑む。
拍手はないが、恐らく屋敷の使用人・執事・主人全員が聞きながら様々な作業をしているのだろうと思ったら、それで満足だった。それでも感想が欲しいなあ、なんて思いながら苦笑いを浮かべると、窓が開いている真下の部屋で、微かに足音が聴こえた。少しずつだが大きく聴こえる。
「」 と呼ばれる。子供のように幼く、しかし芯の通った男の子の声だ。
「何でしょう?」 シエル、と続ける。当主にも呼び捨てなのが、普段の呼び方だ。
「また、屋根の上に居るのか」
「そうですけど、呆れなくてもいいんじゃないですか?」 わざと減らず口を叩いてみる。
「此処からだと屋敷全体に響くんですよ」
「響きすぎて、仕事にならない」
あはは、と陽気な笑い声を上げてしまった。確かにその通りかもしれない。
「ねぇシエル」
「何だ?」
「そっちに行ってもいい?」
わざと敬語をやめる。もっともの我儘や甘えを聞いているだけに、シエルはすぐに分かっただろう。
下の書斎から溜息が聞こえた。 「あと20分でアフタヌーンティーだろうが」
「いいじゃないですかー」 間延びした声を出す。 「誰のために仕事を早く終わらせてるんだか」
「誰のためだ?」
感心が無さそうに訊かれ、思わず溜息が零れる。こんなとき、彼は恋愛感情も知らない子供なんだな、と実感した。
まぁ、生まれたときから許婚が居るんだから仕方がないか。それに自分が人間に惹かれること自体が癪でもあった。
少し間を空けて、揶揄してみた。
「シエルのためだって言ったらどうしますか?」
すると、書類が床に落ちるような音が聴こえ、次にシエルの焦った声が聴こえた。
「はあっ!?」
含み笑いをしながら下を見下ろす。やっぱり未だ早いかな、と内心でからかってやった。
「冗談ですよ」
「……書類を落とさせてまで言う冗談か?」
「それはご自由に、ですね」
ひと笑いして、踵を返した。そのまま後ろに飛び降りる。重力に逆らうことなく落ちていく中、書斎の窓枠に手を掛けてそのまま遠心力をつける。「とうっ」と声を上げて、中に入った。
「あら?」
「うわっ!?」
丁度降り立つ場所にシエルがしゃがんでいたが、もちろん咄嗟に避けられるわけがなかった。上手く体制がとれず、尻餅をつく形で地面に落ちる。何かを踏んだ感触よりも、何かが倒れる音のほうが印象的だった。くらくらとする頭を抑えながら振り返ってみる。何が起きた? まず、窓枠の遠心力で勢い良く書斎に入ったはずだ。その時、丁度放物線の軌道上にシエルが居たため、咄嗟に目を閉じてしまった。例え天使でも咄嗟に浮遊することは出来ない。意識化に無ければ、重力すら無化に出来ないのだから当然だった。目を閉じたため、何があったのかも分からない。
「あれ、シエル?」 辺りには見えない。何処に行ったんだろうか。 「もしかして、素っ飛ばしちゃったかな……」
だとしたら、後が怖い。
下がもぞりと動いた。そこから掠れた声が聞こえる。ファントムハイヴ家主人の声だ。
「シエル、何処ですか?」
「……重い」
「え?」
「重い!」 今度ははっきりと聞こえた。そして同時にことの事態が理解できた。 「退けろ、」
ふわりと円のように広がったスカートで見えなかったが、恐る恐るそれを捲って見ると、頭上に怒りのマークを浮かべたシエルの姿が良く見えた。
思わず 「わあぁっ!」 と短い悲鳴を上げてしまった。 「だっ、大丈夫ですか!?」
急いで退けて主人に手を貸す。完璧に怒らせたみたいだ。
「大丈夫なわけが無い」 あんな入り方をするからだ、と叱責が飛ぶ。 「普通に入れ、普通に!」
ごめんなさい、と眉を下げた。書類を拾う手伝いをする。
「でも、遠回りをした分逢える時間が短くなるから、勿体無く思って」
シエルの手が止まる。吃驚した顔を向けてきた。
書類を全て拾い終えてそれを渡す。その時に笑みを向けて見た。 「早く逢いたいなあって思うのは、駄目ですか?」
それを受け取って、俯かれる。でも、その仕草が何処かくすぐったいような気がして、機嫌が直ったんだと理解できた。
「長時間居るからって、無下に追い返したりはしない。だから安全に来ればいい」
心なしか、彼の耳元が赤く感じられた。
小さい姿を見て、は思う。ますます子供みたいだな、と。子供心を挑発するように返事をした。
「お子様なんだから」
子供じゃない!という声がすぐ飛んでくることくらい、容易に予想が出来た。
author's comment...
気がつけば書いてた。いや〜やられたなあ(笑)
セバスさんよりシエルのほうが書きやすそうなのは私だけ?
なんというか、2人とも甘すぎる話だとキャラが違うからなあ、私向きかもしれない。
ほんのり甘くて、ダークやらのんびりやら、そんな毎日が書けたらいいなあ。
というかが一番気に入ってしまった・・・親バカにもほどがある!