■ 馬を盗まれたあとにドアを固く閉めても遅すぎる
日が傾きかけた、午後四時のことだ。
当てもなく、のんべんだらりと街中を歩いていたは、ふと空を見上げた。
何とも言えない気分が胸の中を駆け巡る。今、その気分に名前を付けるとしたら
「杞憂」 がぴったりかもしれないが、もしかすると 「欣幸」 かもしれない。
それが翻訳業に対するものか、日常に対するものかは解っているが、一人で解消する方法は見つからない。ただひたすら街を歩くだけじゃ、雑念を振り払うことが出来ないことは確かだった。
スランプと言われると、そうかもしれない。数日前の響野の言葉が頭から離れず、何も手につかなかった。翻訳作業も原本読みも、どれも曖昧になることが嫌だったため、とりあえず「休憩」の形を取って今日も外出した。締め切りまでは、まだ時間があるから問題は無い。それでも仕事に集中できないのは少なからずショックだった。諸悪の根源を自分に問いただしてみると、響野に行き着いた。いや、もっと当て嵌まる人物が居る。久遠だ。
たったあれだけでスランプだなんて、あたしらしくないな。思わず溜息が零れる。
「久遠はどうやら、お前に惚れているようだな」 と言った響野の表情は、まるで
「揶揄しています」 と言わんばかりのにやけようだった。その光景が今でも思い出せる。
その後、が辛うじて言った言葉が 「それ、 『アメリカンショートヘアが好き』 って意味?」
だ。素っ頓狂な返答に、我ながら呆れてしまう。この後、案の定響野から 「それはいつもの久遠だろうが」
と指摘をされたのだった。
そもそも、には久遠の恋愛が想像できなかった。
以前、響野が 「彼女は居るのか?」 と訊ねたときだって、結局久遠は答えなかったらしい。確か、薬局チェーン店の社長の娘が誘拐された事件に巻き込まれたときだ。その場にはいなかったのだが、後に祥子から、そう聞いた。
久遠が好きなのは動物で、てっきり人間の女性には興味が無いのだとばかり思っていたが、それは先入観がそう思わせていただけだったようだ。
「どうしよう」 誰に言うでもなく、呟いた。 「久遠のことしか考えられない」
気付けば、街を外れてスタジアム横の横浜公園まで来ていた。木々が多く新鮮な空気を味わえる横浜公園は、恰好の散歩道だ。公園のベンチで洋書を開くと、なにやら自分が有能な文学者になったような気分になるため、暇があればやってきていた。
いつも座るベンチに腰掛けた。木々の隙間から夕陽が覗き、いつもなら読書を楽しむ場所なのだが、今日は洋書を読む気にもなれない。
以前読んだ本に、 「救いは一歩踏み出すことだ。もう一歩、そしてこの同じ一歩を繰り返すことだ」 と書かれていたが、この場合、 「救い」 がわからなければ踏み出しようが無かった。今すぐ作者に問い質したいが、もう故人となっているため、それも出来ない。
「あー、もう踏んだり蹴ったり」 と、やり場なく呟いた。結局のところ、問題を余所にやっているだけじゃないか。
再び、空を見上げた。赤らんだ空が情動を誘う。その情動から逃れるように、目を閉じた。瞼の裏に焼き付いているのは、久遠だ。動物のことになると感情的になり、そのくせ若者らしい軽々しさを持ち合わせている、あの久遠以外に浮かばない。思った以上に重症だ。
急に、突風が吹いた。風がの髪を掬い、同時に後ろの木々が荒々しく葉を揺らした。葉の音が、 「結局はどう思っているんだ?」
と問いかけているように聴こえた。
あたしは久遠を、どう思っているのだろうか。木に言われた通りの問いを、自分自身に投げかけてみた。
勿論嫌いじゃない。寧ろ好意を持っていることは明らかだ。それは仲間内の信頼によるものだと思っていたが、実際のところは良く解らない。自分の心なのに解らないとは、矛盾しているのだが、それでも、数日前から
「何とも言えない気分」 が胸の中に巣食っていたことだけは確かだった。その気分が取り越し苦労なのか、幸せを喜んでいるのか、それが明快になるだけでも、確かな前進になるのでは無いか? もしかすると以前読んだ本が指す
「救い」 は、このことなのかもしれない。
同じ作者が、別の本でこんなことを書いていたのを思い出す。確か、友達になったキツネと別れる場面だ。キツネは
「物事はね、心で見なくてはよく見えない。一番大切なことは、目に見えない」
と言った。長い時間がかけがえのないものを作る。こんな簡単な真理を、人間は忘れてしまったのだと。
「一番大切なことは、目に見えない」 小さな声で言葉にした。居なくなると実感する、と。
「あれ、ちゃん」 ふと、久遠の声が聴こえた。あまりに考えすぎて幻聴が聴こえ始めたのだと思っていたが、今度ははっきりと聴こえて、幻聴ではないことに気付いた。
「まさか、寝てるとか」
「寝てないよ」 ゆっくり目を開けた。首を起こすと、久遠の楽しそうな笑顔が映った。
「もし寝てたらどうしようか考えるところだったよ」
隣に座っていい? と言われ、頷いた。別に断る理由も無い。
「あたしが寝てたらどうしたわけ?」 とからかい気味に聞いてみた。勿論本心ではからかう余裕は全く無いのだが。
久遠は、考えるような唸り声をあげ、やがて 「響野さんの喫茶店に連れて行ったかな」
と答えた。 「このまま寝かせとくわけにはいかないし」
もしもの話に、此処まで真剣になってくれるとは思わなかった。これが動物の話なら別だろうが、の質問は些細なことだったはずだ。再び、胸の中に巣食った 「何とも言えない気分」
が蘇ってきたではないか。
キツネの言葉を思い出す。もし、もう久遠に会えないと知ったらどうするだろうか。答えはすぐに出てきた。
「泣く」 だろう。どんな手を尽くしても会えないことが解れば、泣くに決まっている。
もしもの話に真剣になるなんてどうかしてる、と自分を叱れなかった。
「救い」 の意味が解った。いつの間にか出していた答えに気付いたような気分だった。
答えに気づくと、全ての疑問が消え去った清々しさが胸中を包み込んだ。
「ちゃん?」 いつのまにか、不思議そうに見つめられていた。 「もしかして、目を開けて寝てた?」
その問いに答えなかった。 「ねぇ久遠」
「何?」
「あたしの心、掏ったでしょ」
「はい?」 今度は怪訝な面持ちで見つめられた。冗談かと思ったのだろうか。
だが、真剣な視線を隣に向けると、やっと意味が解ったのか、心なしか久遠の頬が染まった。
「えっ、もしかして響野さんから何か聞いたわけ?」
うろたえようが、今や可愛くも思える。今度はからかうように舌を出す。からかうようにしか言えなかっただけなのだが、それは敢えて伏せて置いた。
「掏ったあたしの心は返さなくていーよ」
久遠は暫く目を見開いたまま、暫くして 「ちょっと待った、それどういうこと?」
「だから返さなくていいってば」 何度も言うと、恥ずかしくなる。これは久遠に対するものではなく、今まで気付かなかった自分に対する恥じらいだ。答えは出ていたのに、いつまでも
「ただの戸惑いだ」 と勘違いしていた自分を正してくれたのが、以前読んだ二冊の本だったのか。作者に感謝の言葉を述べたいが、もう故人となっているため、やはり出来なかった。
意味が解らず、未だ戸惑いの表情を見せている久遠に、今度は本心から揶揄してやった。
「ねぇ久遠、 『馬を盗まれたあとにドアを固く閉めても遅すぎる』 って諺知ってる?」
数日前から、もう既にあなたに夢中だったんだよ。
□ author's comment...
一周年フリー夢でした。ちゃんと引用したのは初めてに近いかもしれません。
四苦八苦した結果、まぁこんな感じに落ち着きました。ネタが見つかってよかったなぁ・・・
でも久遠あんまり出てないなぁ(汗) の心情の変化?に気付いていただければ、それで(笑)
ぶっちゃけた話、結構このお話好きなんです、私。心の変化が良く書けた、と自負しちゃいけませんかね・・・?
date.061021 Written by Lana Canna
お題 【 なんでも取っちゃうあなただから、きっとあたしの心も取っていったのね
】
参考文献:サン=テグジュペリ著「城砦」「星の王子さま」