■ 乗りかけた船には、ためらわず乗ってしまえ
= T =
太陽が空高く上り終え、もう傾き始めていた。
今回は成瀬が同行することもあり、最初は緊張していたも、徐々に自分らしさが取り戻せたようだ。横浜へ向かう電車に乗ったときに、無意識に伸びをしてしまった。
「ごめんね、成さん。今日は一緒に来てもらって」 扉に手を付けたまま、顔だけを向けた。
「気にするな」 成瀬の声は穏やかだ。 「出版社に行くのは初めてだったからな。良い経験だ」
「あんまり他の会社と変わらないと思うけど」 思わず笑ってしまった。
昼過ぎだと言うのに、電車には大勢が乗っていた。と成瀬は扉の前で揺られている。大きく揺れるたびにの身体は左右に翻弄されていたが、扉に手を付けてからはそんなこともない。ふと、隣の成瀬はどうしているか気になったが、きっと何処かを持っているんだな、と思えた。実際に成瀬の身体は、そこまで翻弄されていなかった。
「それにしても、成さんって本当に変わってるよね」 出版社でのことを思い出し、が自身を納得させるように言った。
「そうか?」 成瀬は苦笑いを浮かべている。 「自分ではよく分からない」
「と言うか、異彩を放っているの」
「褒め言葉には聴こえないな」 横を見ると、表情は苦笑いのままだ。成さんの考えてることってよく分からないけど、もしかすると怒ったかな。
「十分褒めてるつもりだよ」 急に不安になり、慌ててフォローをいれた。 「成さんって、何処に行っても周りとは少し違うの。独特の雰囲気を持っていて、どこか近寄りがたいんだよね」
「よく言われるよ」 特に響野に、と、成瀬は付け加えた。
「でも、成さんはそれでいいの」 は心地良い笑顔を見せた。 「羨ましいもん」
成瀬がを見る。不思議そうな視線を投げられた。 「羨ましい?」
「うん、羨ましい」 視線を感じながらも、敢えて扉の向こうを見ていた。次々と移り変わる風景を見ながら、忙しない世の中にある安楽を感じてしまった。
「私は、壁の向こうの物だって見えるのに、未来はたまにしか見えないから」
「俺は壁の向こうのものすら見えないぞ」 心なしか、自嘲するような薄笑いに変わった。
「でも成さんはね、未来を透視しているみたい」 も成瀬と同じような笑みをする。今まで、何度もそう思った。それほど成瀬は落ち着き払い、正しい道を見定めているのだ。以前、響野も同じようなことを言っていた。成瀬は取扱説明書を読んでいる、と。本来なら有り得ない、と軽視するだろうが、成瀬だからこそ、は妙に納得できた。同級生だった響野がそう言っていたのだ。恐らく長い間、間違った道を選んでいないはずだ。
「が羨ましい」 成瀬の声は珍しく表情溢れるものだった。が隣を見上げた。成瀬の笑みが目に映る。優しい笑顔に思わず目が離せなくなった。
「は俺がどれほど努力しても見えないものが見えるからな」
「それなら、あたしだって嘘が判らないよ」
成瀬の視線が外れ、彼は変わりゆく景色に目を向けた。
「ある人に合う靴も、別の人には窮屈である」 誰かに囁くような声で呟いた。
「え?」 にも辛うじて聴こえたが、どういう意味か分からなかった。 「どういう意味?」
「あらゆるケースに適用する人生の秘訣なんて無いんだ」 成瀬の言葉には確信が篭っていた。
「一人一人の持つ力は、たかが知れている。だからこそ俺たちは、たちと一緒に銀行強盗をするんだろ」
横顔しか見えなかったが、には、成瀬が親しみを込めた微笑みをしたことが分かった。急に喜悦感がこみ上げる。成瀬は、達の能力を認めてくれていることが嬉しかった。
「そっか」 何故か恥ずかしくなり、包み隠すように笑った。 「みんな必要なのね」
もう一度、成瀬の横顔を見た。いつもの飄々とした表情が、を安心させてしまった。
急にの表情が強張った。太腿に何か違和感が走ったのだ。身体が小刻みに震え、思わず下を向いてしまう。太腿に、誰かの手が触れている。指が動いた。間違いない、痴漢だ。
成瀬は異変に気付いてくれていないだろうか、と反射的に隣を見上げた。視線が合った。表情を崩し、泣きそうな顔を見せる。いつものからは想像がつかないほど弱々しい表情だ。成瀬は一瞬驚いたが、すぐに元の表情に戻った。
「大丈夫だ」 と、口を動かしたのが分かった。成瀬の視線がの後ろに向けられる。足に触れている手を辿り、真後ろの人物だと確認する。手が太腿を撫でる度にが震えた。
成瀬が右手を伸ばしたようだ。実際には見えなかったが、何をしているのか想像はついた。突然太腿の感触がなくなり、後ろから呻き声が聴こえた。後ろを振り向くと、中年の男が成瀬に手を掴まれ、頭上に上げられていた。その姿を見て、一昨日を思い出した。一昨日、ちらっと後ろを見たはこの顔を見ていたのだ。成瀬に目配せをした。物分りがいい成瀬は、すぐ気付いたようだ。
「なっ、何をするんだ」 男が成瀬を睨んだ。
「今、何をしていた?」 いつに無く冷たい声で返した。
が男を見る。久遠の言葉を借りると、この男は 「スピッツ」 だろう。予想外のことに慌てふためき、キャンキャンと吼える犬にぴったりだと思った。
男は一般人の振りをして、いつも逃げ切っているようだ。当たり前のように
「何って、普通に乗っているだけだろ」 と牙を剥けた。
だが、それで怯む成瀬じゃない。 「嘘をつくな」
「何で分かるんだよ!」
「お前は嘘をついた」 断定口調で成瀬が言った。 「この娘に痴漢を働いたな」
男は大きく身体を震わせ、目を白黒させた。明らかに動揺しているようだ。
周りがざわざわと賑わい始めた。時期に車掌がやってくるだろう。成瀬は男の手をきつく掴んだまま、を見た。 「被害者は君だ。どうする?」
「そうねぇ」 声は柔らかだが、は男を睨んだままだ。 「徹底的に痛めつけてやりたい」
の迫力が予想外だったのか、男が怯えるように震えだした。丁度その時、の真後ろの扉が開いた。男が逸早く気づき、成瀬の手を振り払って逃げるように降りていった。
「あっ」 が男の後姿を見る。すばしっこく、すぐに人ごみに紛れて行方が分からなくなってしまった。
「あいつ、逃げた!」
見覚えがある駅だと思ったら、たちが降りる駅ではないか。男に逃げられ、呆然と立ち尽くしたに、成瀬が囁いた。 「捕まえたくはないか?」
「え?」 成瀬を見る。彼は何故か笑みを浮かべていた。 「でも、逃げられちゃったよ」
「の能力があれば越えられる壁じゃないか」 成瀬に引っ張られ、駅に降り立った。
「もしかして、遠隔透視?」 に笑みが戻る。 「なるほどね」
「さて、どうしたい」 成瀬は相変わらず、未来が見えているかのように落ち着き払っていた。
「捕まえたい!」 好奇心と復讐心が同時に襲ってきた。 「成さん、協力してくれる?」
成瀬はの問いに答えず、代わりに言った。
「ロマンはどこだ」 楽しそうな声だ。
「あたしたちの中に」 反射的にが答えた。やはり楽しそうな声だ。
合図を送るように、発車音が鳴った。達が一斉に走り出した。
と成瀬が早歩きで改札を抜ける。目を閉じて、成瀬の右腕に掴まる。軽く集中すると薄暗い中に中年の男が浮かび上がった。男は駅構内を走っている。
「左に曲がるぞ」 成瀬が言った。透視中はの視界が一切奪われるため、誘導されなければならない。引っ張られるように曲がっている間、は別の視界をただひたすら追っていた。
成瀬が何をしているのか、詳しくは分からないが、どうやら誰かに電話を掛けていることは分かった。ではない誰かに話しかけている声が、微かに聴こえる。だが、何を言っているのかまでは分からなかった。
「、右だ」 成瀬の声に頷く。その間に男は速度を緩め、早歩きで駅のドアを抜けた。の視界も外に出る。まだ駅構内にいるのに、外の光で一瞬目が眩んだ。
「成さん、あいつ、外に出たわ」 すかさず動向を報告する。すると成瀬は声色を和らげて
「俺達も出るぞ」 と言った。
「え?」 もう出るの、と思わず訊ねてしまった。まだ男が出たばかりじゃないか。集中力が途切れ、目を開けた。丁度成瀬がドアを開けた後だった。外の光でもう一度目が眩む。
光に馴染んだが見たものは、玄関に堂々と横付けされた車だった。比較的新型のセダンだろう。後部座席のドア前に、見慣れた人物が立っていた。携帯を閉じた久遠だ。
「奇遇だねー、二人とも」 久遠が笑いながら言った。
「え? なんで?」 全く分からない。何故久遠が此処にいるのだろう。が呆然としている間、成瀬は助手席に乗り込んでしまった。早く乗って、と久遠に押され、後部座席に乗り込む。
「目標は眼鏡を掛けている中年の男でいいわね?」 運転席から、雪子の声が聞こえた。
「ちょっ、なんで久遠と雪ちゃんが此処にいるの」 は心底驚いていた。丁度良いタイミングで現れすぎだ。一体どうなっているの、と心の中で叫んだ。
の仰天模様が顔にも出ていたのか、それを見た久遠が笑いながら答えてくれた。
「僕たち、成瀬さんに呼ばれたんだ」 ね、と雪子に振ると、微笑んで頷いた。
「成さんが?」 の視線は、助手席の成瀬へ向いた。 「もしかして、こうなることが全部予想できていた、とか言わないわよね」
「あらゆるケースに適用する人生の秘訣なんて無い」 もう一度成瀬が言った。
「手を借りなければならないかもしれない。だから念のために連絡を取っておいたんだ」
成さんはどんなケースにも適応できそうなんだけど、と思わず言いたくなった。おそらく事前に待ち合わせていて、が透視をしている間に久遠と連絡を取ったのだろう。
「あたしに一言あっても良かったんじゃない?」
「驚くのも悪くないだろ」 成瀬は微笑みながら言った。 「、透視はいいのか?」
「あ、忘れてた!」 が声を上げた。久遠と雪子も笑ってしまった。
再び目を閉じ、軽く集中させる。隣に座る久遠の腕を掴んだ。いつもの癖だ。車の中にいても、視界が聞かないと不安になってしまう。何回か深呼吸を繰り返し、脳内にある余計な情報を追い出す。あの男を思い浮かばせると、徐々に薄暗い中から男の姿が映った。男はどうやら赤のスカイラインに乗っているみたいだ。もう安心だと思っているのか、運転速度はゆったりとしている。
「雪ちゃん、あの人が乗った車って赤のスカイライン?」 確認のために訊ねてみると、雪子は驚いた声で
「さすが透視ね」 と言った。 「えぇ、確かに赤のスカイラインだったわ」
が得意げに微笑んだ。この車が今何処にいるかが分かればいいのね。車を追いながら、周囲も見渡す。
「あ、ファミレス横の狭い交差点だ」 この光景を前も見たような気がする、と思った。その疑問はすぐ解決された。
「そうだ、前に逃走経路で使ったところじゃない?」
「分かった」 雪子にも心当たりがあったようだ。 「あの辺りね」
雪子の言葉からして、もう近くまで来ていたみたいだ。急カーブを決められ、の身体が咄嗟に大きく揺れた。 「うわぁ!」 と思わず悲鳴を上げる。 「透視中には良くない運転だわ」
成瀬が笑った。 「、もう大丈夫みたいだぞ」
「もしかして見つけたの?」
「赤のスカイラインなら、斜め前を走っているわ」 余裕がある口調だ。 「楽勝だったわね」
が全ての透視作業を終了させて、目を開く。同時に久遠が言った。 「あの人?」
実際に見ていた車が、車線変更をして真ん前を走っていた。さすが雪ちゃん、と感嘆交じりに呟いてしまった。運転席に男が座っているのが見える。は目を細め、冷静に答えた。 「うん、あの人」
男は後ろのセダンに煽られ、速度を上げた。だが、雪子はぴったり後ろに付いている。
「成さん、何処に追い詰める?」 冷静な面持ちの雪子が訊ねた。
前方を見たまま、成瀬はすぐに言った。 「前の逃走経路で使った、操車場跡地はどうだ」
「車を乗り換えたところね」 雪子が大きくハンドルを切る。後部座席のと久遠が、大きく揺さぶられた。
「雪子さんの運転は相変わらず情熱的だね」 左に倒れた久遠が、堪らず呟いた。
「毎回 『生きていられるかな』 ってヒヤヒヤする」
下敷きになっているが喚く。 「それより退いて、久遠。重い!」
助手席から鏡越しに見ていた成瀬が、愉快に笑った。
「もうすぐよ」 雪子が満足気な笑みを見せた。 「追い詰めたわ」
セダンに煽られたスカイラインは、唯一の逃げ場となっていた操車場跡地への道に入った。雪子も追うように入る。跡地には珍しく、一台も車がない。二台の車のみが目立っていた。スカイラインが跡地を出ようとしたが、出入り口はセダンが横付けして塞いでやった。逃げ場がなく、向こうの車も停まる。たち四人が車から降りた。
「そういえば成瀬さん、響野さんは呼ばなかったの?」 いつもより騒がしくないことにようやく気付いたのか、久遠が首を傾げた。
「真っ先に飛んで来そうなのに」
「響野なりに気を使ったんだろうな」 成瀬はいつものように冷淡な口調で言ったが、久遠には親しみがこもっているような気がした。訳が分からず、また首を傾げている。
四人の中にと成瀬の姿を目に留めたのか、男が憤りを隠さず車から降りた。ドアを閉める音が異様に煩く感じた。
「何なんだよ、お前達!」 邪魔をするな、と大声で怒鳴った。まるでスピッツ犬が歯を剥き出して威嚇をしているようだ。
「私が一体何をしたっていうんだ!」
「何かしたからこういうことになるんだ」 成瀬だ。独特の凛々しい声に、男が大きく怯んだ。
面白くも何とも無い、と心の中で呟いた。 「あの男、スピッツよりも弱い柴犬かも」
「 『あの男』 呼ばわりは失礼だよ」 久遠が満面の笑みで制した。手にはいつ取り出したのか、皮製の長財布が握られている。
「あの人にもちゃんとした名前があるんだから」
えーと、と間延びした声を出しながら財布を開く。免許証を見つけたようで、明るい笑みを見せた。子犬が微笑んだような笑みだ。
「あったあった。あの人は 『川口辰彦』 さんって言うんだって」
言葉を失ったの代わりに、隣の成瀬が感心するように言う。 「あの男から掏ったのか」
久遠の得意げな表情を、雪子は吃驚しながら横目で見た。 「いつ掏ったの?」
「川口さんが出てきたときに、ちょっとぶつかっちゃって」 久遠が免許証を弾いた。
「身体的特徴は成瀬さんから電話で聞いていたからね」
さすが天才スリ、と拍手を送りそうになってしまった。久遠を敵に回したらちょっと怖いかも、と思う。だが、味方になると成瀬たち同様、とても心強いことも分かっていた。青い顔で絶句をしている川口を見た。睨んでやると震え上がった。蛇に見込まれた蛙とは、このことを言うのかもしれない。
「お、お前ら、よくも恥を掻かせてくれたな」 一度震え上がった川口が再び低い声で言った。声が今までと違う。開き直ったのだろう。
「一昨日は何も言わなかったくせに、今日は仲間を連れてくるなんて卑怯な女だな」
と嘲るように言った。 「ちょっと触ってやっただけだろ」
の表情が不愉快で染まる。一昨日感じた怒りが再発したのが、自分で分かった。
「あんたさぁ、何か勘違いしてない?」 せせら笑ったを見た成瀬は、怒ったな、と久遠に小声で囁いた。一昨日喫茶店にいた者は、が怒ると態度が悪くなることを知っている。この場で知っているのは成瀬しかいないため、久遠と雪子は目を丸くした。
「こっちが下手に出る必要なんて、これっぽっちもないんだけど」
川口はそれでも怒りに任せて暴言を吐こうとしたが、のほうが早かった。
「あたしには、あんたの人生なんて関係ない」 腕を組んで断言した。「 『次』
を考えているなら、覚悟することね。その日のうちにあんたの住所を突き止めて、乗り込みに行ってやる」
ちゃんならやりかねないかも、と久遠が誰に言うでもなく呟いた。に正体を知られてしまった川口は、どう足掻いても逃げられない。遠隔透視を用いて後をつければ、住所なんてすぐに分かるだろう。の前にあると、たとえ分厚い鉄の壁だってガラス板に変わるのだ。
「人間には幸福のほかに、それとまったく同じだけの不幸がつねに必要である」
突然、成瀬が言った。薄ら浮かべている笑みに、頼もしさを感じられた。
「知ってる、その言葉」 久遠が乾いた笑い声を上げた。 「ドストエフスキーでしょ」
「幸福の後は不幸を与えないとな」 川口からに視線を移す。 「だが、一人では行かないでくれよ。全員で強盗でも、しに行こう」
「 『乗りかけた船には、ためらわず乗ってしまえ』 志向だね、成瀬さん」
「わたしは大賛成よ」 雪子が笑って手を挙げた。 「あの車が走っていた場所も突き止めたんだから、なら絶対突き止められるだろうし」
川口が信じられないとばかりに目を剥いた。口がこれ以上ないほど震えている。これが恐怖によるものか、怒りによるものかは分からないが、どっちだろうとには興味が無かった。
「、どうする」 成瀬が訊ねた。判断を任せているようだ。 「暴力で痛めつけたいか?」
「暴力は嫌」 首を振って冷たく吐き捨てた。 「あたしはもう、言うことなんて無いわ」
不意にの身体が、まるで目を回したように、後ろへ傾いた。隣に並ぶ成瀬が逸早く気づき、支え起こすように肩を抱く。ごめん、と小さく呟いてが続けた。 「すっごく眠い」
「透視のし過ぎね」 雪子が苦笑しながら寝顔を覗き込んだ。
「どうする? 成瀬さん」 久遠が肩をすくめる。 「ちゃんはいつも通りに戻ったみたいだけど」
成瀬が川口に一瞥をくれた。もう解放される、と期待を露にしていた。微かな笑みから、
「この男が全く懲りていない」 ことが見て取れる。
「財布を返してやれ」 気を失うように眠っているを抱き上げた。 「免許証は貰っておこう」
免許証をポケットに入れ、久遠が最後にもう一度、財布の中身を見た。数千円しか入っていない現金に、薬局と電気店のポイントカードが数枚、そして銀行のキャッシュカードが一枚収まっている。さり気なく物見てから、財布を投げ捨てた。川口が急いで財布を自分のポケットに入れる。
「お、おい、免許証も返せよ」
「これは頂いておくよ」 久遠が人懐っこい笑みを見せた。 「大丈夫。川口さんがちゃんに二度と会わない限り、悪用しないから」
一瞬にして川口が青褪めた。やはり懲りていなかったか、と成瀬が呟く。
「勘弁してくれ」 苦しそうに喘いだ。 「たかが痴漢で、何でこんな目にあわされなくちゃいけないんだ」
その言葉を聞いた久遠が、嫌悪に満ちた表情を見せた。急に走り出し、素早く川口の前へ移動したかと思うと、そのまま右手を男の目の前に突き出した。川口が小さな呻き声を上げた。成瀬達から見ると殴ったように見えたのだが、久遠が笑いながら退け、傷一つ付いていない顔を見せる。茫然自失とばかりに目をぱちくりさせている川口の顔が、とても笑える。
「殴らないよ。手が痛くなるだけだし」 久遠が肩をすくめた。 「ちゃんが嫌がることはしたくないしね」
「殴ればよかったのに」 雪子が蔑んだ声を上げる。 「ああいう男は痛みを伴わないと学習しないわ」
「雪子さん、ああいう男を他に知ってるの?」 大袈裟に笑いながら久遠が戻ってきた。
成瀬も親しみ込めた笑みを浮かべた。 「大体予想がつくよ」
「それで、そのまま帰ってきたと言うのか?」 響野が不満そうな声を上げた。
祥子の淹れたコーヒーを一口飲んだ成瀬が溜息をついた。 「他に何をすればいいんだ」
「川口とか言う男がそれ位の仕打ちで懲りたと、お前は本気で思っているのか」
「思わないさ。だから保険は貰っておいた」成瀬の言葉に反応した久遠が免許証を提示した。だが、それを見ても響野の眉間の皺は取りきることが出来なかった。
「どうするんだ? また川口がに近づいてきたら」
「その後はが考えてくれたわ」 雪子が微笑み、テーブル向こうのソファに目を向けた。別名、
『専用ベッ ド』に横たわり、気持ち良さそうに眠っている。 「直接家に乗り込むんだって」
「そうそう、成瀬さんが 『全員で強盗しよう』 って言ってたよ」 と、久遠が笑い声を上げた。
響野が方眉を上げた。 「私は反対だぞ。押し込み強盗ほど醜い犯罪は無いからな」
「冗談だ」 成瀬は真面目な表情で答えた。 「今日は何かと突っかかるな」
「いつもじゃない?」 祥子が笑った。 「この人、口を縫っても隙間から喋りだしそうだもの」
「私はな、怒っているんだ」 響野がコーヒーを一気飲みした。
「何を怒ることがあるの?」 雪子だ。不思議そうに成瀬を見る。成瀬が肩をすくめた。
「の力になり、尚且つ全てを白状しろ、と、私は言ったはずだぞ」
「そこまでは聞いていない」
「そもそも、何故久遠と雪子を連れて行ったんだ」
「お前の案だろ」 成瀬が、堪えきれずに溜息をついた。
久遠と雪子、祥子が目を合わせ、首を傾げた。 「成さん、 『白状』 の意味を訊いていい?」
と、代表して祥子が訊ねた。
成瀬が答える前に、響野が答えた。やはりこいつは代弁者かもしれない、と成瀬は思う。
「こいつはな、に惚れているんだ」
淡泊な言い方が、余計に久遠たちを驚かせた。全員が驚愕の表情で成瀬を見た。
「成さん本当なの?」 雪子が信じられないとばかりに声を荒げた。すると、成瀬は
「知らなかったか?」 と逆に訊いてきた。
「知らなかった!」 久遠の意見に合わせるように祥子も頷いた。 「あの成瀬さんが恋だなんて、全然解らなかったわ」
「とにかく」 響野がその場を無理やり収めた。 「川口の話だ。私はその男が信用出来るとは到底思えない」
押し込み強盗してもそれは変わらない、と念を押す。押し込み強盗は反対なんだろ、と成瀬は思ったが、言葉には出さなかった。代わりに別の話を切り出した。
「強盗と言えば、そろそろ銀行の下見に行こうと思っているんだが」 全く関連性の無い話に、一同はぽかんとしている。成瀬は久遠に視線を移した。意見を促すように思え、久遠が
「あっ」 と声を上げた。
「僕、良い銀行を知ってるよ」 実は川口さんのキャッシュカードを見たんだけど、と前置きを据えて銀行名を言った。
「此処はどうかな」
「確かに良い条件だ」 成瀬が気丈な笑みを浮かべた。
「おい、銀行強盗よりのことだろ」 響野が下唇をぬっと突き出した。だが、成瀬は 「大丈夫だ」 と言っただけだった。
「何が大丈夫なの?」 今度は雪子が食い下がる。だが、きっと内心ではどうにかなることが解っているのか、苦笑いを見せていた。
「全てが片付くはずだ」 成瀬は確信を込めた。 「久遠、強盗当日に免許証を持ってきてくれ」
久遠は首を傾げながらも、頷いた。響野が口を尖らす。 「意味が解らないが、お前が言うなら絶対なんだろうな」
成瀬には全てのシミュレーションが完成していた。金を奪って逃げるとき、指紋をよく拭き取った免許証をわざと落とす。銀行側はそれを見て、
「この男が銀行強盗の一味か」 と思い、名前などから、銀行に預金している男だと判明する。男は冤罪ではあるが、逮捕され、懲役刑を科せられるだろう。仲間のことを訊ねられても、男には答えられない。成瀬やが銀行強盗だと言うことも知らないのだ。
この免許証は 『保険』 ではない。成瀬は最初から悪用するつもりだったのだ。に近づいた時点で、この男は人生を棒に振ってしまったな、と成瀬が思った。
「でも成瀬さん、川口さんの免許証なんて強盗の時に使えるの?」 久遠が怪訝な顔をした。
下見の時、と久遠がこの事を知ったらどう反応するだろうか。成瀬はただ笑みを見せた。
揶揄するような笑みを、は知らない。
□ author's comment...
後編です。すっごい長かった・・・(笑)吃驚するほど長いですよ。本当に!
ちゃん視点で書いてますが、途中寝ちゃったので成さんに変わってます。(ぇ)
だって寝るんだもん。まさか私も思わなかったよ!勝手に動いてくれちゃって、まぁ!
テーマは「痴漢」、というか「身近な犯罪」。一番扱いやすかったので、痴漢にしました。
最後、怖いなぁ成さん。
ちゃんが大事なのは解るが、それはやりすぎだろう・・・(笑)
ちなみにWordで9枚。この話はなんと、18ページ分!?
date.060727 Written by Lana Canna