■ 飽きもせず水は流れる
喫茶店を経営している響野は、疎ましそうにカウンターを見た。
カウンターの片隅にがうつ伏せていた。その姿は 「暇で仕方が無い」 と言っているようで、カウンターの中で祥子が、くすくすと笑っている。
「、うちの店を潰すつもりか」 溜まらず、響野が嘆いた。 「邪魔だ」
ゆっくりと身体を起こす。の表情はつまらなさそうだ。
「だって暇なんだもん。気晴らしになることがしたいなぁ」
「気晴らしだと?」 顔をしかめたが、薄ら笑みに変わる。 「私の話が聞きたいならそういえばいいだろ」
「結構です、響野さん」 の即答に、思わず祥子が笑ってしまった。
響野は顔をしかめ、愚痴をこぼした。 「強盗の打ち合わせの時とはまるで違う」
「え?」
「打ち合わせの時は、私の演説が聴きたいとよく言っていたじゃないか」
不服そうな声を聴いたは苦笑する。 「確かに楽しみなんだけど、今はそんな気分じゃないんだってば」
「ちゃん、これからも聞かなくていいわよ」 祥子がからかうと、が笑った。
「何を言う。これほど豊かな知識を持ったものは他に居ないぞ」 響野は、むきになるように言い返す。
「こういう諺を知っているか? 『知識に支配されるな。知識を支配しろ』 」
は首を捻った。祥子の方を向くが、彼女も知らないみたいだ。肩をすくめている。
「要はだな、知識を支配するにはそれを人々に広めろと言いたいんだ、私は」
「もしかして、響さんが作ったんじゃないの?」 が、からかうように言った。
「諺は誰かが作るものじゃない。いいか、、諺というのは」 響野の説明が始まったと分かると、が立ち上がる。これ以上響野の演説を聴くつもりは無かった。
「そろそろ帰ろうかな。ご馳走様、祥子さん」 満面の笑みを繕い、そそくさと出て行った。
「逃げたわね」 祥子は笑いながら言った。
「今度来たらコーヒーの価格を上げてやれ」 響野が呻いた。 「演説代だ」
響野の喫茶店を出たは、マンションとは反対の方向に歩き始めた。
祥子には 「帰る」 と言ったものの、帰っても暇なことに変わりなかった。それならば、滅多に行かない場所へ行こう、という結論が脳裏で出され、はその結論に従うように街へ赴くことにしたのだ。
だが、ふと立ち止まる。腕を組んで首を傾けた。
「何処へ行こうかなぁ?」 誰に言うでもなく、呟いた。
滅多に行かない場所で、面白味がある場所は何処だ、と思い、脳裏で幾つか挙げてみた。横浜チャイナタウンで食べ歩き。コスモワールドで遊びまくる。ラーメン博物館でひたすらラーメンを食べまくる。三つ目を上げて、傍と気づく。まるで観光ガイドみたいではないか。
「もっと面白い所は無いかな」 腕を組み、首を傾げる。その間にも、の足は市街へ向かっていった。まだ行き先は決まっていないのに、ただ歩くと、市街に行ってしまう。大通りに出ると、大きなドーム上の建物が聳え立っているのが見えた。横浜スタジアムだ。あんなに大きな建物が市街にあって、邪魔にならないのだろうか、と思った。
同時に、最高に面白味のある場所を発見した。そうだ、スタジアムの隣にぴったりの場所があるではないか。
思うや否や、の歩く速度は大幅に上がった。表情は嬉々としている。
目指すは、スタジアム横のビル。 「横浜市役所」だ。
バスを使えば、三十分足らずで市役所前までたどり着くことが出来た。降車すると目の前に聳えるビルに、一瞬驚いてしまった。久し振りに来たが、前に来たときよりも断然標高が高くなっているような気がした。太陽の光を浴びて、日に日に成長しているのだろうか? 実に馬鹿馬鹿しい考えだ。
「えーと、確か、地域生活課だったよね」 案内板を見て、目当ての文字を探す。案外簡単に見つかった。地域生活課は四階だそうだ。不敵な笑みを浮かべる。
成瀬は驚くだろうか。そればかりを考えていた。市役所には行ったことはあるが、成瀬の勤務先までは行ったことがなかった。何故今まで思いつかなかったのだろうか。滅多に行ったことが無いという条件で、面白味がある場所といえば、市役所以外存在しないではないか。成瀬から
「来てはいけない」 と言われていない。寧ろ、も市民だ。市役所に居ても可笑しくは無いはずだ。
自動ドアが開く。入ると奥にエレベータが見えた。迷いもせず、そこへ向かう。エレベータがやってくる間、ふと些細な疑問が過ぎった。
「地域生活課って、何するところ?」
誰も疑問に答える人は居なかった。エレベータの到着音が鳴る。 「自分で行って確かめて来い」
と言っているようだった。肯定するように乗り込んだ。四階のボタンを押す。轟々しく扉が閉まり、暫く機械音のみが聴こえた。中は広いのに、心なしか、肩身は狭い。久し振りに市役所へ足を踏み入れたからか、これから成瀬に会うからか、理由は確かでは無いが、とにかく不安に駆られた。
成さん、怒るかなぁ。顔をしかめてしまった。成瀬が怒る場所は見たことが無いが、勝手に仕事場に出向くと叱られそうな気もしてきた。事前に連絡を取っておけばよかった。だが、もう後の祭りだ。エレベータは三階を通り過ぎ、を四階に届けようとしていた。
到着音が鳴り響く。ドアが開き、再び市役所の風景が目に映った。カウンター、そして天井から吊られている
「地域生活課はこちら」 の文字が、の不安を全て消し去ってしまったのか。再びは楽しそうな笑みになった。
「なるようになれ、だよね」 自分に言い聞かせるように、何度か頷く。次第に高揚感が増していく。これ以上の面白いことは何だろう、と思っても、他に浮かばない。それほど、今この時間を面白がっていた。
それなりに市民がいるのだが、一箇所だけ誰も居ない場所がある。あそこが
「地域生活課」 みたいだ。自然と足が向く。カウンターには、男が一人座っている。他の職員は忙しそうに机に向かっているのが見えた。近づくと、職員の顔が鮮明に見えた。成瀬はどうやら居ないみたいだ。
「ちょっと訊きたいことがあるんだけど」 とりあえずカウンターの男に声を掛けると、男が視線を上げた。よりは年上だが、そう年齢が上でもなさそうなこの男は、街でよく見る疲れきったサラリーマンのような、やつれた顔をしていた。の声に反応するように、顔つきが強張った。
「な、何か困ったことでもありましたか?」
「うん。あのね、成瀬さん何処行ったか知らない?」 男の顔が少し緩んだ。成瀬の知人だと把握したみたいだ。だが目元には、まだ緊張が残っている。あたしが敬語じゃないからかな、と思ったが、特に配慮しようとは思わなかった。
男は掛け時計を一瞥した。 「今は別の階で打ち合わせをしています。もう少ししたら終わるんじゃないでしょうか」
「そっか。じゃあそれまで時間潰そうかな」
「よろしければ、用件をお伝えしましょうか」
「ううん、待たせてもらいます」 わざと敬語を使う。あたしは久遠か、と心の中で自分に突っ込みをいれてしまった。
「そういえば、 『地域生活課』 って何するところ?」
「え」 予想外の問いに、男は戸惑いを見せた。上擦った声で 「苦情とか、町内のトラブルなどを相談するところです」
と答えた。自嘲するような薄笑いを浮かべている辺り、殆どが苦情なのだろう。
「大変だねぇ」 と労ってみると、手を握ってきそうな勢いで乗り出され、 「そうなんですよ!」
と今にも泣きそうな顔で喚かれた。
愚痴が始まる、と瞬時に思ったが、はっと我に返ったようにもとの位置に戻った。本人も愚痴をぶちまけたかった、と言いたげな苦い顔をしている。彼が仕事中で無ければ、済し崩しに愚痴られていただろう。
「と、とにかく何か相談があれば、いつでもお越しください」
「相談かぁ」 唐突に言われても浮かばない。そう思ったが、身近な愚痴は意外と簡単に思い浮かんだ。
「そうだ。行きつけの喫茶店の店主が、凄く変わり者なのよ」 勿論、響野のことだ。
「変わり者、ですか」 再び男の顔が強張る。無事、愚痴だと認識したのかもしれない。
「そうなの!」 と大袈裟に頷く。ついでに男の胸元を一瞬だけ見た。 「大久保」
と書かれた名札が鈍く光る。 「例えば、大久保さんがその喫茶店で寝るとするでしょう?」
「普通は寝ませんよね」 大久保が口を挟んでしまった。しまった、と目を見開く。
「あ、すいません」
だが、は口を挟まれたことを怒ることも無く、 「確かにあたしだけかもしれないけど」
と苦笑いを浮かべた。 「でも、常連にしても、あたしはお客なのよ。それなのに叩き起こして追い出すってのはどうかと思うわ」
「追い出されたんですか? それは酷いですね」
「でしょ?」 自分の意見に賛同してくれると、途端に嬉しくなった。 「さっきなんて
『邪魔』 呼ばわりだからね。 『我儘娘』 って呼ばれることもあるのよ。そのくせ話が大好きで、ペラペラと
『飽きもせず水は流れる』 が如く、喋りを止めないんだから」
「そうなんですか」大久保が苦笑いを浮かべた。 「大変ですね」
「大変なのよ! 自分で諺を作ったりするんだから」 今度はが身を乗り出した。響野を真似た口調で 「こういう諺を知っているか? 『知識に支配されるな。知識を支配しろ』
」 と続けた。 「聞いたこと無いわよ、そんな諺」
「はぁ」 大久保の返事に気持ちが全くこもっていないことくらい解っていたが、あえて何も言わないことにした。
「そんな人も居るんですね」
思いっきり響野の愚痴をぶちまけると、今度は眠気が襲ってくる。別に透視もしていないし、疲れたことはした覚えが無い。すっきりしたからかな、と思いつつ、大きな欠伸をした。
「まだかなぁ、成さん」
「もうすぐだと思いますよ」 時計をもう一度見た大久保が疲れた声を出す。 「打ち合わせが長引いてるみたいですね」
「うー、眠い」 何度か瞬きして、椅子を回した。くるくると、椅子はあっさり一回転する。
「あそこの長い椅子が魅力的に思えてくるわ」
「大丈夫ですか?」 と大久保が労わる声を上げたその時、奥から足音が聴こえた。近くから聴こえる声に、目を輝かせた。
「あっ、成瀬さん」
大久保の声にが顔を上げた。満面の笑顔を浮かべる。 「あー、やっと帰ってきた!」
が見たのは、紙束を持って現れた成瀬の姿だ。紺色のスーツを着ている姿は強盗のときの彼を思わせる。成瀬がこっちをむくと、瞬時に目を剥いた。
「か?」
「成瀬さん、お客様です」 大久保が立って、その席を譲る。気の利く奴ね、と感心した。
酷く吃驚した顔のまま、成瀬が大久保が座っていた場所に座る。大久保は近くにある椅子に座った。おそらくそこが、自分の席なのだろう。
「此処で何をやっている?」 心の底から驚いているのか、まだ信じられなさそうに眼を見張っていた。その様子が見たかったとしては、申し分の無い結果だった。満足だ。
「響さんに追い出されたから、抗議しにきたの」 咄嗟に答えると、成瀬が怪訝な表情になった。
「嘘だな」
「やっぱバレたか」 苦笑してしまった。 「追い出されたのは本当だけど、仕事中の成さんの様子が見たくて、来たんだよ」
「のことだ。面白味を求めて来たんじゃないのか?」
うわ、何から何まで気付かれてるじゃない。もちろん図星だったため、返す言葉も無い。
「でもね、響さんの愚痴を沢山言ってたんだよ」 大久保さんに、と続けると、成瀬が苦笑いで
「大久保も大変だな」 と呟いたのが聴こえた。
「とにかく、帰ったらどうだ?」
「えー、厄介払い? まだ会って間もないのに」
「殆ど毎晩会ってるだろ」 呆れた視線を向けられた。確かに此処のところ、響野の喫茶店でよく会うことが多かったのだが、それとこれとは別ではないのだろうか。
「違う場所で会うから意味があるんでしょう」
「どういう意味だ?」
「仕事中の成さんは格好良いねって意味だよ」 わざと、からかうような視線を向けた。
成瀬の表情は変わらない。 「そうか?」 と一言漏らしただけだった。
「反応薄いなぁ」 大きく欠伸をし、両手を上に伸ばした。 「さて、眠いからそろそろ帰ろうかな」と言って、立ち上がる。
「」 呼び止める声が聴こえた。 「今夜、響野の店に行くか?」
「まだわかんないなぁ」 のんびりした声で答えた。 「でも、成さんがコーヒー奢ってくれるんなら行ってもいいよ」
「なら、その返事は今夜するよ」 意地が悪そうな笑顔を見せた。仕事中は見せないようにしているのか、すぐ元に戻る。
「じゃあ、行かざるを得ないじゃない」 わざと笑みを見せた。 「また今夜ね」
「あぁ、今夜だ」 成瀬の安心した声を聴きながら、去り際に一言呟いておいた。
「ちなみに、あたしのコーヒーの価格は演説代も入るみたいだから高騰するんだって」
□ author's comment...
えーと、思うがままに書いていったら、こんなになりました。
最後が収拾つかなくなったことは、解ってても内緒にしてくださいね(苦笑)
可笑しいなぁ、今回もちゃん暴走してる。この子、一人で突っ走る傾向がありますね。
おかげで一人でどんどん先の展開に進めちゃって、追いつかないです。
ちょっとしたお遊びで、成さんの職場に押しかけました。そこで大久保さんに愚痴りました。
大久保さんは日常と襲撃で出てきた部下です。こんな腰低かったかなぁ・・・(不安)
date.060822 Written by Lana Canna