■ 恋ははしかと同じで、誰でも一度はかかる
成瀬と響野はお互いの顔を見合わせた。
同じテーブルにいる久遠は、焦点が合わないまま頬杖を付いていた。 「心此処に在らず」
とは、まさにこの事を言うのだろう、と成瀬は溜息をついた。
「響野、コーヒー二つ」
「三つだ。私も飲む」 訂正しながら、響野がカウンターに消えた。
残された成瀬は、どうしたものかと珍しく言葉を選んでいる。
「祥子さんは買い物に行っているらしい。響野が淹れたコーヒーは美味いのか?」
とりあえず、なんでもない話題を振ってみる。
「不味いよ、思いっきり」 返事は返ってくるものの、未だぼんやりしていた。
いつもの久遠とは明らかに違っていて、成瀬も困惑を隠せない。
全く盛り上がらないテーブルをカウンターから見ていた響野は、同じく困惑の表情を見せた。
昨日、久遠が響野の喫茶店にやって来たときは普通だった。大して元気が無かった様子も見えなかったはずだ。それが経った一日でこんなに変わるものなのか、と感心までしてしまう。
トレイに乗ったカップをテーブルに置き、響野自身も座る。
「久遠知っているか? 今朝、牧場で火事があったみたいだぞ」 牛が何頭か死んだみたいだ、と響野が大袈裟な演説口調で言った。
成瀬にはそれが嘘だと分かった。当たり前のように嘘がつける響野を、今回ばかりは羨ましく思った。動物関係のことなら、嘘でも久遠は反応するだろう。
しかし、予想に反して久遠の反応は淡泊なものだった。目元がぴくりと動いたが、
「そっか」 と一言こぼしただけだった。
再び成瀬と響野はお互いを見る。今度は驚愕の表情を確認し合っているように思えた。
二人は久遠から遠ざかり、密やかな会話を始めた。
「あの久遠が動物の死で泣かなかったぞ」 と、響野。
「動物よりも重大な悩みか、考え事をしているのだろう。それとも、響野の嘘に気付いていたか」
と、成瀬は脳裏で思考を続けながら返す。
お前じゃあるまいし、嘘には気付かないだろう、と響野は心の中で訴えた。もし嘘だと気づいていても、久遠なら突っ掛かってくるはずだ。
「動物よりも重大な悩みって何だ?」
「わからない」 成瀬が眉をひそめる。
「成瀬にも分からないことがあるのか」 響野が意外な表情を浮かべた。
「とにかく、久遠に訊いてみるしかないだろ」
「よし、私が訊こう」
響野が望まれもしないのに挙手をした。
こう言った出来事に首を突っ込まなければ気がすまない性格なのは成瀬も知っていたため、反対を唱えることもなかった。
元の位置に戻り、ぼんやり頬杖を付いている久遠を見る。
ごくり、と息を呑んで、響野が切り出そうとしたその時だった。
「あら、みんな居たの?」 聞き覚えのある女性の声が、ドアから聴こえた。全員が目を向けると、そこに雪子が立っている。まさか成瀬たちが居るとは思っていなかったみたいで、目を見開いた。
「雪子、非常事態だ」 響野が立ち上がり、自らドアの方へ向かった。
成瀬は、響野が久遠の異変を、本人の耳に入らないように、雪子に話しているのだと思った。案の定、雪子の目はぼんやりと天井を仰ぎ見ている久遠に注がれている。
同じテーブルに着き、横の成瀬を見た。目は 「どうしたの?」 と言っているようだ。成瀬は仕方なく肩をすくめた。その隣に座った響野も同じ表情を浮かべている。
久遠を心配するのも束の間、雪子は思い出したように言った。 「そういえば、さっき連絡があったんだけど、も来るみたいよ」
「えっ」 久遠が高い声を上げた。
成瀬と響野、雪子は久遠の方を見た。もはや注目の的となっている久遠は、落ち着かない様子で目を剥いている。
「久遠、が来ると不都合なのか?」 成瀬だ。探るような視線を向ける。
「え、別にそうじゃないけど」 言葉とは裏腹に、久遠の声は上擦っていた。
「嘘だな」
うっ、と顔をしかめる。成瀬に嘘が通じないことを忘れていた。
「どうしたの? 何か変よ」 思い切って雪子が訊ねる。響野が 「あ」 と声を上げた。自分が訊ねるはずだったのに、先を越されたことが、うら悲しかったようだ。
久遠は身を縮ませたまま黙り込んでいたが、やがて観念したように溜息をついた。
「笑わないでよ」 と、前置きを据えた。
成瀬と雪子は目を合わせ、次に響野を見た。 「だと言っているぞ、響野」
「何で私を見るんだ」 口を尖らせた。 「私だって場の空気くらい読めるぞ」
久遠も響野を見て、再び溜息をつく。響野さんが一番笑いそうなんだよなぁ、と呟いた。
「で、何なんだ?に関係しているんだろ」 勿体振るな、と顔をしかめた。
テーブル上に腕を投げ出した久遠は、苦悶の表情を腕で隠しながら呻いた。
「実はさ」 声が微かに震えている。そんなに言い辛いことなのか、と成瀬が首を捻る。
あの久遠が言い辛そうにするところを見たことが無かっただけに、全員が無意識のうちに覚悟を決めていた。そして久遠が言った、思いも寄らない内容に、一同が首を傾けたのだった。
「実は、ちゃんを見たくないんだよね」
「見たくない?」
成瀬が鸚鵡返しをした。響野と雪子も不可解な言動に困惑しているようだ。
久遠は顔を上げ、頷く。 「ちゃんが嫌いなわけじゃないよ。むしろ好きだし」
「じゃあ何で見たくないの?」 今度は雪子が訊ねた。
「だってちゃんを見ていたら、落ち着かないんだ」 久遠は、答えると肩をすくめた。
響野が下唇を突き出した。 「おい久遠、私は何処で笑えば良かったんだ?」
「響野さんなら笑いそうだったんだ。 『意味不明じゃないか』 ってさ」 久遠の言い分も、もっともだった。響野は何でも笑いのネタにしそうだ、と成瀬も納得する。
「ちょっと話を戻してよ」 雪子が咎める。 「落ち着かないってどういうこと?」
久遠はまた天井を仰ぎ見た。何かを思い出しているようだった。
「何故か知らないけど、ここ最近、気付けばちゃんの姿を目で追っちゃうんだよね」
昨日もそうだったと言われ、響野は昨日の久遠を思い出してみた。
「目で追っていたか?」 と腕を組みながら首を捻ると、 「響野は注意力が散漫しているからな」と、久遠の前に成瀬が答えた。
顔をしかめたが、それくらいは響野にも分かっていたようだ。そのことには触れず、話を戻した。
「で、何故目で追うんだ?」
「それを考えてるんだってば」 久遠が苦笑する。
成瀬にはその答えが薄々感じられていた。次第に笑みがこみ上げてくる。
「お前、本当に分からないのか」
「分かんないよ」 肩をすくめた久遠を見て、失礼かと思いつつも笑ってしまった。
案の定久遠は、不服そうな表情に変わる。響野も分からないようで、首を傾げた。成瀬の隣に座る雪子も笑っている。どうやら考えが一致したようだ。
「何だ、雪子も分かったのか」 響野が訊ねた。
「響さんが分からないのが不思議だわ」 雪子が茶化すように言った。「よく祥子さんと結婚できたわね」
それは俺も疑問だった、と返した響野の言葉に、更に笑いがこみ上げた。
「ちょっと、響野さんのことなんて、どうでもいいんだけど」
久遠が異を唱えた。困惑の表情の中に薄ら焦りを浮かべている。もうすぐが来るからだろう、と成瀬は思った。
「成瀬さんと雪子さんは分かったの? 教えてよ」 必死な様子で訊ねた久遠が、だんだんと飼い主を急かす犬のように思えてきた。
成瀬は、自分が口を出していいのか迷った。本来なら自分で気付くはずのことで、他人の口出しは無用だろう。だが、久遠は本気で分からないようだった。或いは、それが選択肢に入っていないのだ。
色々考えたが、結局は久遠の驚く顔を浮かべながら、成瀬は口を開いたのだった。
「を目で追うのは、彼女に恋しているからだろ」
成瀬はいつも通りの飄々とした口調で言った。だがあまりにも信じられない内容に、久遠は勿論、響野までもが耳を疑ってしまった。
雪子は成瀬の言葉に納得するように頷いた。 「久遠も人の子だったのね」
「えっ、僕が? ちゃんに、恋だって?」
久遠の動揺は笑いを誘った。本当に気付かなかったのか、と成瀬は含み笑いを浮かべた。
「あの久遠がに恋だと? 正に、ここが笑う場所じゃないか」 響野が豪快に笑う。 「動物ばかりを愛でていたから、てっきり人間に恋はしないのかと思っていた」
「ごめん、わたしもそう思ってたわ」 苦笑いを浮かべた雪子が控えめに挙手をした。
隣の成瀬も勿論、そう思っていた。もしかしたらもそう思っているかもしれないな、とからかってやった。
久遠は思わぬ感情に内心では四苦八苦しているようだった。顔中を赤く染め、困惑の表情を浮かべている。
「嘘でしょ?」
「恋ははしかと同じで、誰でも一度はかかる。確か誰かがそんな格言を残していたな」
響野が口にした格言を、成瀬は聞いたことがあった。確かイギリスの作家だっただろうか。とにかく、その格言は今の久遠にぴったりだった。
久遠の反応を見る限り、信じられないが、が初恋の相手なのだろう。今まで動物に全ての愛情を捧げてきたのだろう。成瀬としても、そっちの方がしっくりと合い、久遠らしく思う。
暫く混乱するように黙り込んでいた久遠が、呟いた。
「どうしよう」
「何をだ?」
「いや、それを知った今、どうすればいいの?」 肩をすくめている。お手上げのようだ。
響野があっさり答えた。 「そりゃ告白だろ」
「はぁ?」 久遠は顔をしかめる。
「私なんてな、祥子に何度告白したことか」遠い目を浮かべた。 「何度言っても信じてくれないんだ。
『お得意の嘘でしょ?』 とよく言われた」
「お前の場合は半分嘘が混じっていただろう」 成瀬は苦笑した。
「混じっていたのは最初だけだろうが」 響野が振り向いて不服の表情を浮かべたが、すぐに久遠に向けられた。
「とにかく、告白だ。 『愛とは決して後悔しないこと』 だと、 『ある愛の詩』
でも言っていただろ?」 何でも格言や諺を用いるのが響野だ。よくそんな言葉が次々と浮かぶものだ、といつも成瀬は感心する。
久遠が反論しようとしたその時、喫茶店のドアに備え付けられている鐘が鳴った。全員が音の鳴った方へ目を向ける。そして久遠は苦虫を噛み潰したような表情を作り、それ以外の者は薄ら笑いを浮かべた。
「やっほー」 能天気な声と共に、が入ってきた。
一仕事終えたような清々しい笑みを見せ、何の迷いも無く四人が座るテーブルにやってきた。
「これは、これは、じゃないか」 まるで探偵が刑事を見つけたような口調で、響野は言った。 「私はコーヒーでも淹れてくるか。成瀬と雪子は運ぶのを手伝ってくれ」
あからさまに席を離れようとし、久遠は響野を睨む。は自分が来る前のやり取りなんて知るわけも無く、慌てて気を使った。 「あ、自分で取りに行くからいいよ」
「いや、俺も淹れ直したコーヒーが飲みたいんだ」
響野の言葉に乗っかるように、成瀬が席を立つ。薄ら浮かべた笑みは久遠に向けられ、
「頑張れ」 と言っているようにも取れる。
「わたしも手伝うわ。祥子さんの代わりよ」 雪子も立ち上がり、に席を譲る。そして成瀬たちが居るカウンターへ向かっていった。
「何? みんな急に立っちゃって」
は不思議そうに三人を見て、それから久遠へ視線を移した。丁度向かい合わせにが座り、久遠の目が泳ぐ。その様子を見て響野が、くすくすと笑った。
「あんなに挙動不審な久遠、見たことが無い」響野の笑い声を聞きながら、成瀬が言う。
「ちょっと、あからさまだったかしら」 雪子だ。多少心配しているようだ。
「多少強引でないと、恋は燃え上がらない」 響野が指を指揮棒のように振ってそう言った。
「誰の言葉だ?」 と成瀬が聞くと、胸を反らせて 「私の言葉だ」 と返した。
一方久遠は、内心で三人を恨んだ。ただでさえ目を合わせづらいのに、逆効果じゃないか。
「久遠? どうしたの、なんか大人しいね」 が首を傾けた。
「え? そ、そんな事無いよ」 何とか平静を装おうとするが、上手くいかない。
恋とは決して後悔しないことだ、と先ほどの響野の声が木霊する。
後悔はしたくないが、告白なんて出来るわけない。無意識で頭を振ってしまう。
「やっぱ変なの」 は苦笑いを浮かべた。 「久遠らしくないなぁ」
「変じゃないってば」 とりあえずその場を取り繕うため、話題を広げた。 「じゃあさ、僕らしいってどんなの?」
きょとんとしたは、柔らかい笑みを浮かべた。
「そうだなぁー。いつも笑顔で、元気いっぱいなのが久遠かな! あたしも楽しくなっちゃうの。明るい久遠がね、大好きなの!」
何気ない言葉だったが、が言った 「大好き」 の言葉が久遠の心を高鳴らせた。また、カウンターで聞き耳を立てていた三人も、この事態には驚きを隠せないようだ。
久遠も、の気持ちに驚きはしたが、やがて晴れ晴れとした笑みを見せた。
今なら言えるかもしれない。膝の上にあった右手が力強く握り拳を作った。
「僕さ、ちゃんが好きなんだよね」
「私も好きだよー?」 当たり前のように言ったは、可愛らしい笑みを見せていた。
久遠とは、何事も無かったかのように笑い合ったかと思うと、再びいつもみたいに何気ない話に花を咲かせ始めた。
「つまらん」 響野が不満気に呟いた。 「私の予想だと、久遠はに振られるはずだったんだ」
「いいじゃない、一件落着したみたいなんだから」 雪子が宥める。
成瀬は、ただ笑みを浮かべて若者二人を見ていた。初々しさを感じるところが羨ましく思う。
「恋をした後のもっとも大きな幸福は、自分の愛を告白することである」
不意に呟いた。それは響野の耳にも聴こえていた。 「誰の言葉だ?」
成瀬は、と久遠を見たまま微笑んだ。
「忘れた。もしかしたらあの二人かもしれないな」
□ author's comment...
陽気なギャングは書くのが楽しいです。
伊坂先生独特の雰囲気を保つのは大変だけど、みんなのユーモアには感服!
こりゃ
ちゃんがキャラ負けしないように気をつけなくちゃいけませんね。
短編は始めて書きました。久遠夢・・・でもあんなんでいいのだろうか。
今回はいつもと打ち方が違うので、小説風に。出来るだけ改行しないよう気をつけました。
ちなみに、Wordで6枚。この話は12ページで出来たわけですね。
date.060704 Written by Lana Canna