■ 女心と冬の風はくるくる変わる

 とてつもなく火照ったアスファルトは、まるでバーベキューの金網のようだった。響野の喫茶店でアイスコーヒーを待ちながら、は思った。我ながら上手い例えだ。
 たった外を数分歩いただけなのに、まだヒールの底が熱い。灼熱地獄と化した外は、ニュースによると気温三十度を優に越えていた。アスファルトなんて四十三度の熱を持っていたそうだ。まだ朝の九時なのに、これほどまで暑くていいのだろうか。
「暑い」 カウンターにうつ伏せて呟いた。 「響さん、冷房効いてない」
「効いているだろうが」 響野がの隣にコースターを敷いた。その上に、細いコップに注がれたアイスコーヒーが乱暴に置かれる。ひんやりとした冷気がの顔にかかった。
「 『もっとガンガン効かせて』 って意味で言ったんだけど」 呆れた声を出し、ストローを銜えた。コーヒーを吸い上げた途端、顔をしかめる。 「うわ、衝撃的な味」
「 『美味い』 という意味か?」
「そのままの意味よ」
 コップを遠ざけ、再びうつ伏せた。まだ身体にこもった熱が取れない。近くの木々に留まっている蝉の音が室内まで聞こえてくる。暑苦しい煩わしさを感じた。
 苛立ったが癇癪を起こしそうになったその時、ドアに備え付けられている鐘が鳴った。 「暑いなあ」 と、切実に呟いた久遠が目に映った。手を団扇のように扇がせながら、久遠が、を見る。 「あれ、ちゃん。早いね」
「いいえお客様、私は従業員ですわ」わざとおどけた声を出した。 「何をお飲みになりますか? マスターの不味いコーヒー?」
「遠慮するよ」 苦笑された。 「それよりちゃん、今暇?」
 思わず首を傾げてしまった。あっという間に表情を変えた久遠は、嬉々の笑みを見せていたからだ。何がそんなに嬉しいのか、まるで見当も付かない。 「暇だけど、何かあったの?」
「あったんじゃなくて、これからあるんだよ」 弾んだ声で答えた。後部から響野の含み笑いが聴こえる。それがに教えてくれた。 「よくは無いことだ」と。
「何があるの。成さんの通夜? 死んだの?」 恐る恐る訊ねる。多分顔は引き攣っていただろう。
 その問いを待っていた、と言いたげに、久遠の目が見開いた。 「詳しくは響野さんが知ってる。今の、成瀬さんに言っていい?」
「冗談だから止めといて」 椅子を回して視界を響野に移した。 「響さん、久遠に何をさせる気なの」
「久遠にとっては最上の喜びだろうな」 手近なストローを一振りした。 「私の最愛のペットを散歩に連れて行く約束だ」
「散歩だって?」 苦々しい表情を浮かべた。 「こんな暑い中散歩だなんて、死ぬわよ。死にたいの?」 と、今度は振り向いて久遠を見た。
 久遠は肩をすくめた。嬉しそうな笑顔とは似つかわしくない行動に、は呆れて言葉も無い。
ちゃんも一緒に行く? いい運動になるよ」
「冗談でしょ。ただでさえ数分の距離で死にかけたのに、長々と散歩なんて出来ない」 の言葉に偽りは無かった。思ったことを包み隠さず口に出してしまう癖がいつもコンプレックスに思っていたが、今回ばかりは気にしない。行きたくない気持ちが勝った。
「誰かがブッダに訊いた。 『夏の猛暑を避ける方法は?』 ブッダは答えた。 『燃え盛る炎に身を投じればいい』 」 響野が言った。心底楽しそうだ。 「も見習ったらどうだ」
「嫌よ」 冷たく言い放つ。 「ブッダが間違ってるわ」 と、電話オペレータに苦情を言うかのように文句を言った。実際に、 『心頭滅却すれば、火もまた涼し』 と何かの本に書いていたが、そんなことは有り得ない。火を涼しく感じるほど滅却するなんてことは出来ない。出来たとすれば、それは焼死しているはずだ。死人に感情は無い。無責任だが、脳裏で断言した。
 ふと、腕を引っ張られた。衝動で立ち上がる。腕を持つ手を辿れば、久遠だと解った。の表情とは対照的に、満面の笑顔を浮かべている。まるで犬が笑ったような人懐っこさを感じた。
「さぁ、行こう。犬も外で待ってるんだし」
 えっ? と思うのも束の間、ぐいぐい引っ張って入り口を目指し始めたではないか。見かけによらず、久遠の力は強い。必死に抵抗しても、体力を余計に消費するだけだった。
「ちょっ、久遠! あたしは行くなんて一言も言ってないよ」
「楽しいはずだよ」 何の根拠があるのか、久遠はそう答えた。楽しさなんて微塵も感じられないが。
「いや、行きたくない! 響さん助けてよ」 無我夢中で助けを求めたが、相手は響野だ。案の定、心底楽しそうな笑みで 「燃え盛る炎に身を投じて来い」 と言われてしまった。
「久遠、冗談なら今すぐ止めて」 ドアの前まで連れて来られると、流石に危機感を感じてしまった。声色を下げて言うと、久遠はようやく腕を放した。肩を窄めたが、名案が閃いたのか、手を叩いた。 「アイス買ってあげるからさ、一緒に行かない?」
 アイス? と鸚鵡返しに訊ねてしまった。暑いときに冷たいアイスを食べるのは、確かに惹かれる。だがそれだけじゃ行く気にならないのも事実だった。 「い、行かないもん」
、帰ったらかき氷を食べるか?」 今度は響野だ。 「これも久遠の奢りらしいぞ」
「え?」 そんな事言ってないよ、と久遠が口を尖らせた。だが響野の提案はにとってはとても魅力的に感じた。アイスにかき氷、しかもタダ。かき氷は響野が作るにしても、これはコーヒーのように不味くなることはない。
「乗った!」 の声が高らかに発せられた。同時に、久遠と響野がほくそ笑んだ。


 店主に手まで振られながら、久遠とは喫茶店を出る。カラン、と鐘の乾いた音が聴こえ、途端に熱気がを取り囲んだ。今までクーラーに当たっていた分、特に蒸し暑さを感じる。蝉の鳴き声が一層大きく聴こえた。耳から脳天までを劈くような雑音だ。
 ふと、店付近の小影を見つけた。響野が飼っている雑種犬が舌を出して伏せている。人間ですらこの暑さに参っているのだ。毛で覆われている犬は、もってのほかだろう。かわいそうだと思いつつも、暑そうに胸を上下させている犬を見ていると、何だか可愛らしく思ってしまった。
「待った?」 久遠がリードを持って犬に訊ねている。犬は待ち侘びたように立ち上がって、歩き始めた。どちらも同じような表情をしている。楽しげだ。恋人同士のように見えるのはだけだろうか。
「行くよーちゃん」 呼ばれて、ようやくも歩き出す。暑さで頭がクラクラする。 「やっぱ止めとけば良かった」 と呟くと、聞こえていたようで、笑いながら 「乗せたほうも悪いけど、乗せられた方も悪い」 と言われた。
 犬は楽しそうに歩いている。たまに止まっては草むらを必死で嗅いでいる。そして腰をかがめる姿を見て、 『メス』 だと解った。
「ねぇ久遠、この子の名前は?」 興味本位で訊いてみると、意外な答えが返ってきた。
「さぁ? 響野さんが教えてくれないんだ」 と答えた久遠は、つまらなさそうに肩を窄めている。 「変な名前を付けているに違いないね」
「あの久遠がしつこく訊かないなんて、吃驚だわ」 とわざと驚いた声を上げると、久遠が頬を膨らませて振り向く。 「響野さんが秘密主義なんだよ」 と付け加えた。
 犬は散歩に夢中で、暑さなんか忘れているみたいだ。ただ前を見て歩いている。早歩きだ。その様子は可愛いと思うが、にとって、暑さは忘れられない課題だった。手で仰ぎながら、久遠の三歩後ろをついて歩く。
「ねぇ、久遠」 名案が思いついたのだが、表情を変えず言った。 「いい名前を思いついた」
「名前? どんなの」 久遠が速度を緩め、と並んだ。楽しそうな笑顔が目に映る。この笑顔は 『犬の散歩』 だからか、 『といる』 からか、定かでは無い。
 一拍置いて、が腕を組んだ。 「この子は今日から 『クロエ』 って名前にしよう」
「え、響野さんの犬なのに名前つけるの」 首を傾げられた。だがそれよりも由来が気になったのだろう。 「意味は?」 と訊ねてきた。
「ギリシャ小説からよ。 『ダフニスとクロエ』 っていうタイトルなの」 曰く、レスボス島を舞台に、山羊飼いのダフニスと羊飼いのクロエが、様々な障害を乗り越え、幸福な結婚をするという、恋愛小説だ。シャガールのリトグラフやラヴェル作曲のバレエ組曲でも有名なのだが、どうやら久遠は知らないようだ。ぽかんと口を開けている。
ちゃんって博学だよね」 時々凄いって思うよ、と付け加えた。 「何で知ってるの」
「そりゃ、翻訳家だもの」 あまり意味は無いが、とりあえず胸を張っておいた。 「今度、その小説を翻訳するの。まだ最初の方しか読んでないけどね」
 クロエと名付けられた犬は、我関せずとばかりにリードを引っ張っている。半分垂れた耳が雑種らしいのだが、そこが愛らしさを感じられる場所だ。可愛いなぁ、と思いながら視線を犬に向けていると、興味津々の声が聴こえた。久遠が訊ねた。 「ギリシャ語も読めるんだ」
 言葉を詰める。 「読めないって。あんな変な言葉」
「暴露じゃないか」 軽快な笑い声を上げた。 「でもギリシャの小説なんでしょ? どうやって訳すのさ」
「原書を訳すわけじゃないの」 苦笑して、鞄から本を取り出した。先ほど話した 『ダフニスとクロエ』 の小説だ。英語で書かれたタイトルを指差す。 「英語で訳した本を、あたしが日本語で訳す。これも翻訳のお仕事でしょ?」
 ようやく久遠も納得したみたいだ。うんうんと頷き、 「だからギリシャ語が読めなくても翻訳家になれるのか」 と自分に言い聞かしている。もちろん、の耳まで届いていた。
「久遠くん、アイス二本にしてもいい?」
「えっ、聞こえてた?」 久遠の唇がびくついた。怖がらなくてもいいじゃない、と言ってやろうとしたが、敢えて無視をしてやった。


 それから十分が経過した。散歩ルートは公園に場所を移し、五歩先を歩く久遠とクロエは、活き活きとしていた。リードを上下に振っている。
 はと言うと、いい加減暑さで我を見失いそうになっていた。じりじりと照りつける太陽が怨めしい。額に浮かぶ汗を手で拭きながら、足取り重く歩いていた。 「暑い!」
「もう疲れたわけ?」 久遠が苦笑交じりに呟いた。 「ちゃんスタミナ無さすぎ」
 そんな事言われたって、暑いものは暑い。頭から靴底まで熱に侵されている気分だ。顔に張り付く髪を鬱陶しく思いながら、心底思った。括ってくれば良かった、と。
「暑い、暑い、暑い! 久遠、休もうよ」 丁度前方に木陰を見つけた。大きな木の陰にベンチが置かれている。休むには丁度良い場所ではないか。 「ほら、クロエも 『暑い』 って言ってるよ」
「クロエの言ってることが解るんだ」 振り向いて、に笑みを見せた。
「解る! 翻訳家を馬鹿にするなよ」 強引に理由付けてやった。 「肉球が火傷するって言ってるよ。ほら、休まなくちゃ」
 久遠がけらけらと、笑い声を上げた。癇に障ったものの、休憩を優先されたは尚も、 『クロエの言い分』 と称して自分の意見を言い続けた。
 丁度木陰に差し掛かったときだ。おもむろに、リードを枝にかけた。これは休憩の合図だ、と判断したがベンチに座った。久遠も隣に座る。
「はぁー、疲れた」 背もたれに寄りかかり、大きく伸びをした。 「木陰の涼しさが改めて解るわ」
「大袈裟だよ」
「本当にそう思うんだってば」
 クロエは地面に伏せて舌を出し、荒い息遣いをしていた。口の両端がぐいっと上へ吊り上がり、それを見て久遠が 「笑っているみたいだよね」 と笑った。確かに、正面から見ると満面の笑みをしているように見える。可愛くて、思わずも噴出した。
 暫くしないうちに、手で扇ぎながら、隣を見た。 「アイス食べたい」
「まだ十分しか経ってないんだけど」 久遠は顔をしかめる。
「でも暑いんだもん」 半ば強引だ。 「久々に、 『スイカバー』 が食べたいな」
「はいはい、買ってくるよ」 やおら立ち上がって、歩き出す。数歩歩いて振り向いた。 「ちゃん、血液型はB型?」
肩をすくめてやった。 「知らなかった?」
「薄々気付いてたよ」 打ち解け顔を見せて、踵を返した。
 暫くは二人きりだ。ベンチの傍で暑そうに息をする犬を見下ろした。正直、この犬を 『クロエ』 と名付けたのには、もう一つの理由があった。様々な障害を乗り越え、それでも結ばれることになったダフニスとクロエは、実にお似合いだと思った。久遠と犬の楽しそうな表情に、嫉妬したのかもしれない。久遠の動物好きは今に始まったことじゃないが、皮肉のつもりで名付けたのだ。
 とはいえ、この犬の可愛さはにも解っている。雑種犬ならではの雰囲気が、微笑ましい気分にさせてくれる。同時に、自分の大人気なさに呆れてしまう。何故嫉妬をしたのかも解らない。
 日向と違い、木陰はなんて涼しいのだろうか。風の心地よさにも気付くことが出来る。髪を撫でられながら、鞄の中から洋書を取り出した。暇を持て余すには読書が一番だ。
 読む前に一度だけ、クロエを見た。のんびりと寝転がっている。風が気持ち良さそうだ。
「もう、可愛いなぁ」 思わず微笑んだ。悔しいほど可愛すぎる。
 久遠が帰って来るまでの間、彼女の快い呼吸を聴きながら、イギリスの恋物語を読み進めた。


ちゃんは絶対B型だ」 戻ってきた久遠が呆れながら呟いた。
 ベンチに腰掛けたまま、は首を下げて眠っていた。手には開いたままの洋書が握られ、膝の上に乗せられている。熱気が気にならないほど涼しい木陰を、気に入ったのだろう。眠気に負けてしまったようだ。
 溜息をついて、久遠は隣に座る。のために買ってきたアイスは、自分で食べることにした。袋を開け、赤と緑のカラフルなアイスバーを取り出す。一口食べた。冷たくて、美味しい。
「 『女心と冬の風はくるくる変わる』 って諺がぴったりだなあ」 次々と食べながら、独り言を呟く。 「ま、今は夏真っ盛りだけど」
 すやすやと眠っている、の横顔を見た。膝の上の洋書と、木陰のベンチという状況が良く似合う寝顔だ。よく見ると、足元にはクロエが寝転がっている。彼女も気持ち良さそうに鼻を動かしていた。
「全く、仲が良いんだから」 最後の一口を食べ、苦笑した。 「羨ましくて嫉妬するよ」
 することも無くなり、だが起こしたくなかった久遠は、そっと洋書を取った。 「うわ、ちんぷんかんぷん」
 吃驚した声に反応するように、の小さな笑い声が聞こえた。楽しい夢を見ているのだろうか。
 じりじりと火照ったアスファルトは、まるでバーベキューの金網のようだった。洋書から目を落として、久遠は思った。我ながら上手い例えだ。



□ author's comment...

 犬の散歩中に思いついたネタです。9時半に行くんですけど、暑いのなんのって!!
 蝉のセッションが脳内に轟くんです。もう死ぬかと思いますよ。
 響さんの犬については、語るまでも無いでしょう。日記で散々語ったしね。
 ほのぼの感が出てたらいいんですけどね。敢えて最初と最後の文章が一緒にしました。
 ちなみにWordで6枚。これくらいが丁度いい長さだと思うのは、私だけかな。

 date.060811 Written by Lana Canna



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