■ 犬が月に吠えついても無駄である
横浜駅構内のベンチにもたれた久遠は、仕方なく溜息をついた。
忙しなく横切る群集をぼんやりと眺めているうちに、何故自分が時間を持て余しているのかが分からなくなった。もちろん久遠に非は無い。あるとすれば、遅刻常連者のだ。
天井に備え付けられた時計を見る。分針は、すでに一時を十三分も越えていた。
「ちゃんの遅刻癖が治る頃には、僕は悟りを開いてるね」 絶対に、と断言した。
騒がしい人並みを暫く眺めていると、次第に自分が野鳥観察をしている気分になってきた。片手に望遠鏡を持ち、もう片手には野鳥図鑑を開く。のんびりと生活をする鳥達を望遠鏡で観察しながら、生態を確認する作業は、動物好きの久遠にとってはこの上ない幸せだ。ニュージーランドの空を翔るギンフルマカモメや、雄大な大地を雄々しく歩くオーストラリアクロトキの姿を眺める。脳裏にそんな光景を思い浮かべ、駅構内に歩いているのが人間ではなくて動物だったらいいのに、と本気で思った。たまに、
「人間観察が趣味」 と自慢している人間を見るが、何が楽しくて人間なんて身勝手な生き物を観察したがるのか、理解に苦しむ。
ふと、遠方から向かってくる人物を発見した。いま流行りのふわりとしたワンピースをはためかせ、悪びれもせず堂々と歩く姿を見て、ああ、と呟く。遅刻常習犯のだ。
「やっほー、久遠」 女性特有の高らかな声には、罪悪感が欠片も入っていない。
「お待たせ」
「随分待ったよ」 と皮肉めかして苦笑すると、 「そう?」 と首を傾げた。 「あたしにしては早い方だと思うけど」
「そりゃそうだけどさ」 彼女のマイペースさには、久遠は愚か、流石の成瀬だって適わない。肩をすくめるのはいつものことだった。
「ちゃんはさ、 『五分前行動』 って知ってる?」
知ってるわよ、と呆れた声では答える。 「そもそも、五分前に行動して誰が得するわけ? 待ち合わせ時間はその五分後なんだから、そこでただ待っている五分間が無駄じゃない。それよりは時間ぴったりに到着するように努力した方が、有意義に時間が使えると思わない?」
五分前行動を忠実に守る人は、よっぽど暇な人か、ただの自己満足者よ。彼女はつらつらと、まるで立て板に水が流れるような滑らかさで、そう言い切った。
黙って聞いていた久遠の脳裏に、ある人物が浮かび上がった。同じようなことを言いそうだ、と失笑する。
「それ、誰の受け売り?」
「響さん」 と、思ったとおりの答えが返ってくる。 「やっぱり分かった?」
「そんな屁理屈、響野さんぐらいしか言わないよ」
聞けば、遅刻の理由に使えと響野に言われたらしい。それを真に受けて使うところが、らしいといえばらしい。
「でも、今日は本当に不可抗力だったんだってば」 肩をすくめ、苦笑交じりに呟いた。
「ちゃんと早めに家を出たんだけど」
「何かあったの?」
「来る途中で変な人に声を掛けられちゃってさ、何だったんだろう」
「え」 何だったんだろうって、何だったの? 当事者であるにも分からないことが、久遠に分かるはずがなかった。 「どんな内容だったわけ?」
「一人でいるの? とか、何処か行かないか? とか、すごく馴れ馴れしかった」
鬱陶しいとばかりに顔を歪めた。 「何なのあれ、なんの勧誘よ」と呟き、危うく蹴りかけたとばかりに右足を上げた。蹴りの体勢なのはいいが、スカートを気にしないのだろうか。
「それ、本気で言ってる?」 久遠は思った以上に自分の声が冷やかだと気付いた。
「ナンパじゃないか」
「何よ、そのナンパって」 の声も冷めているが、とぼけている様子も無かった。
ナンパを知らない人間が居るだろうか。いや居ない、と即否定したかったが、現に目の前に居るのだから、世の中はどうかしている。
とにかくその足を下げてと願いながら、久遠はやんわりと訊ねる。 「それで、どうやって切り抜けたのさ?」
「それはまあ置いといて」 の仕草は、まるで目の前にあった箱を余所に持っていくかのようだった。 「久遠、買い物付き合って!」
「買い物?」 の嬉しそうな表情を見ていると、 「いいよ」 と言いたくなってくる。 「何か欲しいものがあるの?」
「そうじゃないの」 と答えたは、ポケットから何かを取り出した。よく見ると、それは商品券のようで、有名デパートの名前が刻まれている。
「さっきの勧誘者に貰っちゃったー」
今、なんて? 気付けば久遠は身を乗り出していた。勧誘者って、もしかしてナンパのこと?
「何?」 は、ほくほく顔を近づける。
「どうやって貰ったの」
「確か、 『付き合ってくれたらこれあげる』 って言ってた」
「まさか、それで付き合ったとか言わないよね」
「付き合える訳が無いことは、久遠が一番知ってるでしょ」
「じゃあ何で?」 怪訝な表情で商品券を見つめていると、は揶揄するように、唇を吊り上げた。 「男の敗因は、あたしに商品券を渡したところと、透視能力者だったところにあるんじゃないかな」
それってどういう意味、と訊こうとしたが、機嫌の良いのか、饒舌な口調で説明してくれた。
首を傾げながら商品券を眺めていたが、男が言ったデパート名は有名で、も良く足を運んでいた。その商品券ともなれば、流石に目の色も変わる。しかし、出された条件は受け入れられなかった。久遠の手前もあったが、何より目の前の男と一秒でも長く一緒に過ごすなど、天地がひっくり返ったとしてもごめんだった。ましてや付き合うなど、言語道断に等しい。
そこで、咄嗟に考えが浮かんだ。体力も必要な上、道順の下見も何もしていない現状では少し危険かもしれないが、その考えに従うことにした。
「ねえ、それ見せてー」 と、わざと子供っぽく声を出してみた。確か、響野が前に言っていたような気がする。
「お前は、もう少し子供っぽくてのんびりした口調なら、“専門”の奴らに好かれるんだろうな」
そして、 「全世界の男が持つ愛情は、幼女にも熟女にも均等に注がれる」と、自分で作っただろう、聞いたことのない諺を続けた。
“専門” の意味は分からなかったが、恐らくこの男はその一味に入ると予想したのだ。案の定、男の顔が一層綻んだ。
「偽者じゃないって」 と声を上げて商品券をに手渡す。 「なんなら、もう何枚か上乗せするよ」
手に持った感触によると、千円券が十枚ほどあるようだ。ちっ、一万円分か。舌打ちをしそうになったが、それでもどうにか堪えた。
「本当に? じゃあ、上乗せして!」 とわざと子供っぽくはしゃいだ声を出してみた。
すると男は頬を綻ばせ、 「じゃあ絶対に付き合ってよ」 と念を押しながら財布を出して、そこから同じ商品券を数枚取り出した。何枚あるんだ、と疑いたくなったが、思い返せば、これが男のナンパの仕方だったのだろう。もう少し渋ったら、さらに出しただろうか。それはそれで悔やまれる。
男は間抜けなことに、取り出した商品券をそのままに渡してきた。返事をしていないのに、易々と餌を渡すなんて、どれだけ無防備なのだろう。この男の将来を憐れんでやったが、所詮はの知ったことではなかった。
「有難う」 と満面の笑みを見せ、すぐさま踵を返した。男に何も言う間を与えない。脱兎の如く、地面を蹴った。
男の焦ったような声が、後ろで聞こえたが、立ち止まるではない。追いかけてくる音が小さく聞こえた。速度を上げる。運動はあまり好きではなかったが、駅構内に入るとすぐ女子トイレに駆け込んだ。これで一応身は守れる。
壁に寄り掛かり、瞼を下ろした。胸に手を置き、息を整える。集中すると、次第に目の前が開け始めた。洗面所の鏡に映った自分ではなく、先ほどの男が映る。駅前で、慌てて周りを見回している。そんなところには居ないよ、と嘲ってやりたくなった。やがて、諦めたのか、男は肩を落として駅を離れていった。それを見送って、は透視を終了させる。手には、男からせしめた商品券が握られている。数えてみると、十四枚あった。一万四千円の利益を得るとは、今日は良い日かもしれない。
嬉しそうに商品券を鞄にしまうと、久遠と待ち合わせをしている場所に向かうべく、歩き始めた。
「というわけで、あっさり貰えたわけ」 と、自信満々に話すを見て、呆れて言葉も無かった。誰にでも影響を受けやすいことが災いしたようだ。響野の影響だけでなく、久遠自身の影響も受けているのか。まさか掏り、いや、もはや詐欺まがいのことまでやってしまうとは思わなかった。
「ちゃん、それは犯罪ってやつじゃないかな」 一応、言ってみた。
「あんたが言う台詞じゃないでしょ」 案の定、は頬を膨らませて指を差してきた。その通りだ。 「その言葉、久遠が掏りをしたときに返してやる」
「楽しみにしてるよ」 軽口を叩いて、立ち上がった。背伸びをして 「じゃあ行こうか」
と歩き出す。
隣を歩くが、思い出し笑いをした。 「あの男は高望みしすぎたのよ」 商品券なんかであたしを手に入れられるわけないじゃない、と胸を張っている。
久遠は苦笑いを浮かべる。ちゃんだって商品券に目の色を変えたじゃないか。
駅に近い場所にある公園は広々としていて、街中にあるにもかかわらず、空気がとても澄んでいた。整備された芝生や針葉樹の隙間を縫うようにベンチが設置されている。そこに腰をかけたは、ついさっきまで歩き回っていた足を休ませるようにぴんと伸ばした。思う存分買い物を楽しんだデパートが隣に建っていて、此処からでもビルが良く見えた。
「あー、楽しかった」
「心から楽しんでたよね」 久遠は笑う。実際、と久遠の間には数枚の紙袋が並んでいた。殆どを荷物持ちと化した久遠が持っていたのだが、それは仕方ない。
「人の商品券なのに」
手で扇ぎながら、が笑う。 「人の商品券だから楽しめるのよね」
「ちゃんってさ、見かけによらず悪魔だよね」
「それって 『本当は天使』 っていう意味にならない?」 と、図々しくも訊いてきた。久遠は知らないとばかりに肩をすくめる始末だ。
暢気に笑っていたが、途端に顔をしかめた。 「それにしても、暑い」
「はしゃぎすぎだよ」
「あたしは暑さに弱いんだって」 扇ぐ速度を上げながら呟いた。しかし扇いでいるのが手だから、熱を飛ばしきれないみたいだ。
「あーつーいー」 と叫ぶ様子は、まるで猫が飼い主を嫌がっているようにも見える。
そういえば、一緒に犬の散歩をしたときも真夏日だったな、と思い出す。響野の愛犬を散歩していたときも、は暑さで我を見失いかけていた。あまりの暑さに 「暑い」 「暑い」 と独り言を呟いていた。
「ちゃんってさ、もしかして冬生まれ?」
「ううん、夏生まれ」 弟が冬生まれだよ、と続けたは、けろりとしていた。本当はそんなに暑くないんじゃないか、と疑いたくなる。「でもそんなの関係ないと思う」
「なるほど。どうりで姦しいわけだ」 夏の騒々しさをそのまま受け継いだのかと考えると、無性に納得できた。
癇に障ったのか、が眉をひそめた。 「そういう久遠は春生まれ?」
「え、何で?」
「春の陽気がおめでたい久遠にはぴったりだから」 不敵な笑みで指を差した。
「おめでたい久遠くん、あそこの自販機まで走ってきなさい」
「え、何で?」 もう一度同じ質問を返してみた。 「僕がおめでたいのは、まあ、その通りかもしれないけど、自販機まで走る意味がわからないよ」
「あたしがお茶を飲みたいから」 久遠に差していた指を、そのまま三十メートルほど先の自動販売機に向ける。
「暑さにやられたか弱いちゃんのために買ってきて」
「 『か弱い』 だって? 『がめつい』 の間違いじゃないの」 けらけらと笑って立ち上がった。減らず口を叩いたところで、の機嫌が直るわけじゃないことも知っていたが、それよりも買ってきてあげたいと思ってしまった。こんなとき、久遠の立場はとてつもなく弱いものになる。
「仕方が無いなあ」
待ってました、とばかりにが両腕を上げた。 「わーい、久遠大好きー」
冗談みたいな言い方だな、と溜息を付く。 「それ、本気?」
「お茶を買ってきてくれたら答えてあげる」 は柔らかい笑みを浮かべた。
自動販売機が三台、まるで前方を遮るように置かれている。公園には自動販売機が不可欠だろうが、公園の中心部分に並んで置かれているのを目の当たりにすると、場違い極まりなく思えた。
販売しているジュースを一通り眺めて、が好みそうなものを選んでいく。真ん中の自動販売機で売られている緑茶に決めて、百五十円投入した。ボタンを押すと、ペットボトルがぶつかる音が聞こえる。取り出し口に手を入れると、指の先がひやりとした。良く冷えてるなあ、と自動販売機に激励してあげたかったが、相手が動物ならまだしも、喋らない機械なため、馬鹿馬鹿しいだろうと思い直した。
「ちゃんに渡す前に、一口飲んでやろう」 ベンチに背を向けて、ペットボトルの口を捻り開けた。喉の中に傾けると、ひやりとした感覚が全身に広がった。冷たくて美味しい。陽射しが辛いから、緑茶でも美味しく飲める。気付けば久遠は、ペットボトルの半分を飲み干してしまった。
口から離して、ようやく中身が見える。 「これは、さすがに怒るかな」
気まずいまま振り返ると、久遠はそのまま視線を外すことが出来なかった。さっきまで暑い暑いと叫びながら手で扇いでいたが、なんとこっちに向かって歩いているではないか。やばい、半分飲んだことに気付いた? 怒られるとばかりに身体を硬直させた久遠だが、よく見ると、一人ではないことに気づいた。
斜め後ろから、を追うように男が歩いている。知らない男だ。もしかしてナンパだったりして。脳裏に浮かんだ考えを笑い飛ばしたかったものの、のうんざりした表情を見ているうちに、あながち馬鹿には出来ないぞ、と思い直してしまった。現に、待ち合わせ場所で会った時だって言っていたではないか。
「凄く馴れ馴れしい人に声を掛けられた」 と。は 『ナンパ』 の定義を知らなかったが、久遠には分かる。その男は確実にをナンパした。
「だから、しつこいわよ」 の声が聞こえた。明らかに声が毛嫌いしている。 「知らないってば」
トラブルだろうか、と少し不安になったその時、追うように付いて歩いていた男の声が耳まで届いた。
「だからさっき渡した商品券だよ! 返さないんなら約束を守れって」
「約束? あたしが? いつ、何処で?」
「とぼけるのもいい加減にしろ!」 男は明らかに熱り立っている。 「駅で会っただろ? 商品券をあげたら付き合ってくれるって言ったじゃねえか」
その言葉で事態が飲み込めた。に付きまとっている男は、久遠と待ち合わせる前のナンパ男か。易々と商品券を渡してしまい、に巻かれた間抜けな男の顔をまじまじと見てしまった。その間にも、はこっちに近づいている。
さて、僕はどう出るべきだろう。無意識に苦笑した。を助けるにしても、下手をすれば逆効果になる。どうすればいい、と目配せをしてみたが、気付いてくれなかった。
こうなったら声を掛けてから考えるか。そんな考えに至り、久遠がの方へ足を一歩踏み出した。そのまま歩き進めていたが、ふと、の顔を見て、呆れ返ってしまった。
彼女は嬉々とした表情をしていた。あくまでもこの状況を楽しんでいるみたいだ。こんな状況すら楽しめるとは、なんて能天気なんだ、と思ったが、今に始まったことではない。寧ろ、その方がらしい。アメリカンショートヘアーみたいだな、と不覚にも見惚れてしまった。
ちゃんどうしたの、と口を開きかけたそのときだった。今まで合っていた視線がふいと外されてしまった。そしてなんと、は久遠を通り過ぎてしまった。話しかけられるのは得策ではないと考えたみたいだ。いや、それとも知らん振りをした方が面白いと判断したから?
唖然とする暇は無かった。それならば、と思う間もなく、逸早く体が動いた。斜め後ろを歩く男に身体を向け、流れに任せて身体をぶつけた。わざとぶつかったわけで、長年の経験や勘を働かせ、素早く相手のジーンズのポケットに手を入れる。離れると同時に手を抜いた。
男がよろけ、久遠を睨む。もちろんそんな視線に構っている場合でもなく、通り過ぎるように数歩足を進めた。そして少し離れてから財布の中身をチェックしてみた。案の定、男の財布には現金が少なく、後は商品券が束になって入っていた。その中から商品券だけを一束頂き、振り向いての出方を窺った。全く、この状況を楽しみすぎだってば。
「ちょっ、おい、待てよ!」 男はというと、久遠よりもが先決とばかりに小走りで後を付いていった。 「とにかく商品券を返すか、付き合うか、しろよ」
「あーもう、煩いなあ」 苛立ちを含めた声を上げて、が振り返った。すかさず久遠が左手を振った。財布を持った手だ。把握したかは分からなかったが、嘲るような笑みを浮かべた。
男が近づいて、の身体が揺れた。腕を引っ張られたらしい。
「俺と付き合えよ」 有無を言わさない迫力で男が言った。
「悪いんだけど 『付き合う』 なんて選択肢は、もう無いの」 が答える。即答だ。 「商品券は使っちゃったし」
「はあ?」 男は最初こそ首を傾げていたが、 「じゃあ弁償しろよ」 と言った。
「てめえがやったことは犯罪だろうが。弁償だよ、弁償」
弁償ねえ。間延びした返事を返しながら視線を久遠にやった。 「犯罪なら、あたしよりもたちが悪いのに遭ってるはずなんだけど」
その言葉が 『話しかけろ』 と言う合図に聞こえた。
仕方ないなあ。久遠は溜息を付いて、二人に近づいた。同時に、には誰にでも影響を受けやすい性格を改めてもらおうと考える。男が何か言い返す前に、声を上げた。
「あれーちゃん、どうしたの?」
少し白々しかったかな、と思っていると、男が振り返った。怪訝な顔をしていて、逃がさないようにの腕を掴んでいる。 「あ? なんだお前。関係ねえよ」
直接関係が無いと言えば、その通りなんだけど。内心で呟いて、続きは口に出した。
「僕を邪険に扱わないほうがいいと思うけど」
「そういえば久遠、お茶買って来てくれた?」 忘れてた、とばかりにが訊いてきた。そう言う場合じゃないよ、と肩をすくめる。 「響野さんだけじゃなく、僕の影響も受けるから厄介事に巻き込まれるんだよ」
「でも、あたしは掏ってないよ」 顔をしかめて掴まれていない方の手でこっちを指差した。
確かにそうだけど、と苦笑する。それでも詐欺まがいのことをしたじゃないか。
「てめえら、俺を無視してんじゃねえ」 堪忍袋の緒がぶつりと切れたようで、男が喚いた。
「とにかく俺はこっちの女に用があるんだよ。邪魔するな!」
「でも、僕も君に用があるんだ」 久遠が首を埋めた。 「この財布、君のでしょ?」
男が瞬時に息を呑んだ。そして顔を真っ青に染め、の手も離して自分のポケットをまさぐり始める。その光景を一瞬でやってのけた男を褒めてやりたいところだが、そうもいかない。に向けて手招きをすると、スキップでもしそうな足取りで近づいてきた。
「いやあ久遠くん、いつもながら驚かされるほど軽やかに掏りますね」
「ちゃんこそ、いつも厄介事に巻き込まれる上に楽しんでるよね」
「それ、褒め言葉に聞こえない」 がぼやいた。
久遠も負けじと 「はじめから褒めたつもりは無いんだけど」 と返した。
「そんなことより、お茶飲みたい」 聞こえない振りをしたのか、が素っ気無く呟いた。 「あの馬鹿な男のせいで喉が渇いたー」
もともと自分が蒔いた種じゃないか。久遠は笑ってしまったが、とりあえずは片手に持っていた冷たいペットボトルを渡した。気付くだろうか。いや、じゃなくても気付くだろう。
案の定、半分しかない中身を確認した途端、久遠に向けて裏ビンタを食らわしてきた。もちろん素早さは勝っているため、ひょいと避ける。それでも彼女は冷たく言い放った。
「半分飲んだわね」
「僕のお金だからね」
「飲み残しを渡すなんて、信じられない」
「とか言いつつも、飲んでるじゃない」 ペットボトルのキャップに手を掛けているを見て、指を差して指摘した。 「ちゃんってさ、可愛いよね」
「煩いなあ」 喉の渇きには勝てないのよ、と続けた。 「あのつまらない男が全部悪い」
そこでやっと話題が振られたに安堵したのか、そうでないのか、男が大声で叫んだ。
「つーかお前、財布返せよ!」
久遠は男の声など耳にも入っていないと言う風に、に向けて言った。 「全部って、全部?」
「そう、全部」 もう一口飲んで喉が潤ったのか、途端に饒舌になった。 「ヒトラーが独裁政治をしたのも、この世に犯罪が絶えないのも、日本がアメリカの狗になったのも、全部あれのせい」
「それはあまりに可哀想じゃないかな」 相変わらずつまらない人には厳しいよね、と続けながら、頭を掻く。
「久遠、この諺知ってる?」 全部飲み干したのか、ペットボトルを投げ捨てて口元を拭っている。
「 『犬が月に吠えついても無駄である』 」
聞いたことがあった。確か、卑しい者が及びもつかない高望みをすることだ。思えば、目の前の男にぴったりの諺だった。をナンパした時点で、高望みをしすぎたのかもしれない。だから日本の政治も犯罪の増加も全て責任にされたのだ。別の人だったらもっと違った展開だっただろうな、と考えて、とても可哀想になってきた。財布を返してやりたかったが、が許さなさそうだ。
結局のところ、人間は自分が一番だ。久遠だって、に嫌われるのはまっぴらごめんだ。例えそれが知らない男、しかもとてつもなく間抜けな男のためだとしても、変わらない。
「さて、お兄さん」 が言った。もういい加減うんざりしていて、決着を付けたがっているようにも思える。
「財布を返して欲しければ、あたしのことは忘れることね」
「別に掏ったわけじゃないよ」 無意識で言い訳をした。いつも誤魔化すために使っている言い訳だ。
「落ちてたのを拾っただけなんだ」
だったら返せ、と男は喚いたが、もちろんその案は却下される。 「大体よ、てめえらどういう仲なんだよ。俺の用は女にあって、お前なんかにはねえんだよ」
どういう仲って、愚問過ぎないか? 悪いと思っても、笑ってしまう。笑い始めると、隣のも耐えられなかったのか、腰を折って笑った。ひとしきり笑った後で、男に微笑みかけてやった。
「ただの顔見知り程度なら、わざわざ君の財布を掏ってまで、助けないよ」
が右腕に自分の腕を絡めてきた。後を続ける。
「あたしたち、恋人だもん」 わざと舌を出して、おどけた。 「最初から 『付き合う』
という選択肢は無いって言ったでしょう? だって、あたし、久遠のものだし」
男よりも先に反応してしまった。思わず隣に目を向けて、口走る。 「あ、ちゃんもそう思ってたの? 僕だけかと思ってた」
当たり前でしょう、とばかりに腕をつねられた。痛くて彼女の手を叩くと、楽しそうな笑顔を向けられた。それを見るととても微笑ましく思って、状況なんて関係なしに頬が緩んでしまう。ああ、やっぱりちゃんには敵わない。
目の前の可哀想な男はというと、口をぽっかりと開けたまま、呆然としていた。
「今までそんな素振り無かったじゃねえか」 これじゃあ、ただの出歯亀だ。確かにそう呟いて、がくりと身体を折り曲げた。膝に手を付いている様子は、先ほどの威勢からはかけ離れていて、それはそれで可笑しかった。
「さて、どう苛めてやろうか」 が呟いた。悪い笑みだ。 「なんだっけ? 犯罪とか弁償とか聞こえたけど」
そういう自身が元凶だとは、彼女は微塵も思っていないだろう。久遠はあからさまに溜息をつく。援助しなかったらどうするつもりだったの、と訊ねてみると、はきょとんとして 「久遠があたしを放っておくわけ無いじゃない」 と答えた。言い返せないことも分かっていたのか、今度は腕を組んで続けた。
「そもそも久遠とデートしなかったら、こんな事態にならなかったはず」
「それ、 『ちゃんが余計な知恵を働かさなかったら』 の間違いだよ」 暫定口調で言ってやる。が言い返せないことも分かっていた。
もはや公園の飾りと化している男に向かって、財布を投げた。男は辛うじてそれを受け止めたみたいだが、それでも表情は変わらなかった。自分がと久遠の二人にいいように遊ばれたことが悔しかったのもあるだろうが、何より、あまりに自分のことを蔑ろにされすぎたのが悲しかったのかもしれない。本当にこの男は
「愛すべき馬鹿」 だな、と思ったが、それを口に出せば馬鹿にされるか逆上されるだろうと考えて、胸中に収めておくことにした。
「響野さんの喫茶店でも行こうか」 わざとの手を引っ張って、その場を離れる。話が読めないは 「でも、まだ懲らしめてないよ」 と躊躇ったが、結局は久遠に引っ張られるままベンチに戻って、そのまま荷物を持って、逃げるように公園を出て行った。最後に男を盗み見ると、闘争心が無くなったのか、二人が離れようが関係ないとばかりに呆然と突っ立っていた。僕じゃなくて響野さんだったら、気が済むまで餌食にされてただろうなあ。それはそれで可哀想に思えた。ある意味では僕も、たちが悪いけど、と笑う。男が財布の中身に気付く前に、この場所を離れていなければならない理由があった。
数メートルは歩いただろうか。人通りの多い大通りを、を引っ張りながら進んでいたが、此処まで来れば見つからないだろう、と判断して、手を離して立ち止まった。訝しい顔のが引っ張られた手をぶらぶらと振りながら口を開いた。 「何をそんなに急いでたの?」
「ちょっとね」 久遠はと言うと、得意の表情だ。 「あの人が、僕らの前で財布を開けられるわけには、いかなかったんだ」
「どういう意味?」 首を捻った姿が愛らしいなあ、と思いながら、久遠は自分の財布を取り出した。そしておどけるような声を出す。
「僕と付き合ってくれたら、これをあげるよ」 確か、こんな内容だったはずだ。
はあ? と顔をしかめたに向かって、財布から商品券の束を出して見せた。数時間前にがナンパ男からもらったもので、ついさっき掏った財布から取っておいたものだ。ざっとだが、三十枚ほどの厚みだ。案の定、の目が見開かれ、嬉々の色に変わった。 「まさか、掏ったの?」
「掏りの基本は中身だけをもらう事だ」 何処かの言葉を引用するように答えた。
「今作ってみたんだけど、どうかな」
「そのままの意味だから諺には向かないけど、あたしは好きよ」 わざと揶揄して笑った。
「ねえ久遠、買い物行かない?」
「賛成」 と言って、気付いた。これからまた増える膨大な荷物を持つのはではなく自分なのだ。
少し苦笑いを浮かべたことも知らず、今度はが誘導した。腕を引っ張られながら、久遠はまあいいかと思い直した。が喜ぶなら、なんでもいいか。
□ author's comment...
えーと、ラブラブとかそういうんじゃないけど、実は信頼し合ってる、みたいな感じです。
ナンパ男さんは途中から扱いが面倒で、おざなりになってたりして。だって鬱陶しい(笑)
久遠は相変わらず、なんだかんだ言ってが好きなんです。そんな話。
というか自分を棚に上げるの堂々とした態度は天晴れもの。見習いたいです。
結構長々としてました。何ページ分費やしたかは忘れたけど。
date.070808 Written by Lana Canna