■ 青年は教えられることより刺激されることを欲するものである

「月が自分を主張し始めると、空は譲るように暗がり、星々は引き立てるように輝いた」
 澱みなく一文を打ち終えたは、惹かれるように空を見上げる。桜の花で半分以上を遮られた空は、その一文どおり暗がり始め、月や星が爛々と輝いていた。溜息を吐いて再び視線を戻す。膝の上に乗った小型のノートパソコンはディスプレイを光らせ、キーボードに手を置けと主張しているようにも思える。
 ふと、視線をディスプレイの一点に集中させる。右下にひっそりと存在する時計だ。デジタル表示の時計は午後六時五分を刻んでいた。
「まだかなぁ」 誰に言うでもなしに呟いた。 「お花見をしたいって言ったのはあたしだけど、何も場所取りまでしたいなんて言ってないのに」
 立春を過ぎれば、人々は温かい平和に包まれる季節を迎える。毎年感じる春の陽気に魅了されているのは人間だけでなく、木々も華やかに彩り、爽やかな時を刻んでいった。今年も同じだ。中でも、筆頭に立つのが、桜の木。ソメイヨシノは土手沿いの並木道を白く飾っていた。その様子をテレビで見ていたは、ふと、人間味のある欲求を感じた。
「お花見がしたいかも」 と。
 それからの行動は早かった。まずは響野に花見の話を持ちかける。そういったイベントが好きな響野は案の定乗り気で、自ら 「食料係」 と名付けるほど盛り上がった。次に、その話を広める。勿論最初は、連中のリーダーである、成瀬だ。の予想通り、そういったイベントには寛容な成瀬は 「いいんじゃないか」 と前向きな返事をくれた。その言葉を聞くや否や、乗り気になるだろう久遠と、皆が来るなら来るだろうと思われた雪子にも花見話を持ちかける。昼は多いだろうから、夜桜をしようという意見も見事一致し、事は着々と進んでいった。
 花見がしたいと思ってから、僅か数日でそれを現実にするの行動力は、凄まじいものだった。しかし、一つの誤算が生じてしまった。
 当日は、全員仕事が入っているのだ。は仕事柄、多少の自由は利くのだが、殆どは六時を回らないと自由が利かないらしい。よって、唯一時間帯関係なく自由の利くが自動的に、場所取りをすることになったのだ。
 場所取りなら一時間は早く来ていなければいけない。は勝手な使命感を燃やし、五時頃からこの場に座っていた。それでも待ち時間は暇なため、仕事用のノートパソコンで電子辞書を片手に翻訳作業を行っているのだった。まったく、翻訳家も大変だ。
 慣れた手つきで文章を打ち込んでいく。キーボードを押す音が心地良い。暗闇が作業に支障をきたすかと思ったが、ぶら下がっていた提灯の仄かな明かりが手元を照らしてくれたため、打つペースが落ちることは無かった。
 そして桜の下で仕事を始めてから十数ページほど進んだとき、聞きなれた足音が聴こえた。リズミカルな足取りで、スニーカーを引き摺っている。顔を上げると、もう近くまで来ていた。久遠だ。
「やっほー」 片手を上げ、挨拶を交わす。 「久遠、一番乗りね」
「一番乗りはちゃんじゃないか」 笑いながら挨拶を返してきた。 「ずっといたの?」
 ずっとじゃないよ、と肩をすくめる。 「久遠こそ、バイト終わってきたんでしょ? 大変だね」
「バイト?」 久遠の反応は意外なものだった。首を傾げて 「今日はないけど」と答える。
「そうなの? じゃあ何でこんなに遅いの」
「学校だってば」 知らなかったの? と怪訝な視線を向けられてしまった。
 しかしにとっては寝耳に水だ。 「えっ、久遠って学校行ってたの?」
「一体何年の付き合いなのさ」 はぁ、とあからさまに溜息を吐いて、久遠は隣に座る。 「僕が大学に行ってるって、知らなかった?」
「知らなかった。何処の大学?」 はとぼけているわけでもない。至って大真面目だ。久遠が口にした大学名に、驚く。 「嘘でしょ?」 と隠すことなく口に出してしまった。
「心外だなあ」 非難するように指を差される。 「ちゃんって何処まで本気か解らないよね」
 敢えて微笑む。 「貴重な意見を有難う」
「それにしても、夜桜も結構綺麗だね」 久遠は上を見上げて、何度か頷いた。 「まぁ、騒ぐうちに桜を観るどころじゃなくなるんだろうけど」
「え?」 どういう意味かと訊こうとしたが、久遠に遮られてしまった。 「あ、成瀬さんだ」
「成さん来たの?」 思わず疑問も忘れて振り返る。提灯の明かりが、遠くまで明かりを照らしていた。その先に、こっちに歩いてくる人物を見つける。確かに成瀬だ。スーツ姿から、仕事帰りだと解る。
「二人とも早いな」 成瀬は靴を脱ぎながら、挨拶を交わす。 「久遠が場所取りをしたのか?」
「あたしが場所取りしたに決まってるじゃない」 信用無いなあ、と溜息をつく。
成瀬は驚いたように目を瞠り、 「そうか」 と答える。 「あのが大人しく場所取りをしていたとはな」
 信用無さすぎ、と悪態を吐く横で、久遠もしみじみと頷く。 「確かにちゃんなら場所取りも忘れて、ふらふらと出歩きそうだよね」
「ちょっと久遠、あたしは幼子と同類だって言いたいの?」 あんまりだ、とばかりに睨んでやった。すると久遠は手を左右に振って 「違うよ」 と否定する。どうやら本気で怒ったものだと思ったみたいだ。 「幼子って言うより、仔犬みたいなんだよね」
「なるほど」 ビニールシートの上に座った成瀬が納得の声を上げた。 「久遠ならではの発想だな」
 からかわれていることは解っているのだが、あまりの言われように呆れて物も言えない。
「で、成さん仕事はどうだった?」 どうにかこの状態を避けようと、話題を変える。このままずっと主導権を握られるのは面白くなかった。
 功を奏したか、成瀬が答える。 「あらかじめ、仕事内容に残業を加えている奴は居ない」 要は、疲れたらしい。
 お疲れさま、と労いながら、パソコンに視線を戻す。 「私は今でも残業中だけど」
「それ、言えてる」 面白かったのか、久遠が乾いた笑い声を上げた。
「珍しいな」 成瀬も感心の声を上げた。 「が屋外でも仕事をしているなんて」
 また信用が無い発言を、と嘆きかけたその時、土手を歩く人影を見つけた。その人影はまだ幼さが残っていて、それでも独特の聡明さを秘めていた。もしかしなくても、と思って声を上げた。
「あれー、慎ちゃん?」 おーい、と手を振る。
 人影は気が付いたようで、土手を下りて近くまで寄る。提灯の明かりで鮮明になったのは、やはり雪子の息子である慎一だ。制服を身に纏った慎一は、何してるの、とばかりに首を傾けたが、合点がいったのか、すぐに納得の声を上げた。 「ああ、お花見だっけ」 お母さんが言ってた、と続ける。
「そう、お花見!」 が頭上を指差す。桜の下だということを表現したかったのだ。
「慎一こそ、何してるんだ?」 成瀬が眉を顰める。寄り道は賛成できないのだろうか。
「学校帰りだよ」慎一は肩をすくめた。 「クラスの委員長がなかなか決まらなくて」
「そりゃ大変だ」 けらけらと笑う。成瀬たちと違って最近まで学生だったとはいえ、卒業したからすれば、委員会選抜なんて一昔前のことに思えた。 「で、決まった?」
 ビニールシートのすぐ傍まで来た慎一が、疲れたように首を左右に振った。 「みんな頑固で困っちゃうよ」
「慎一がすればいいのに」 久遠も他人事なのか、笑いながら指を差した。
「そうだな、慎一なら適任だ」 成瀬が意見に乗る。
これはも乗らなくてはならない。 「推薦してあげようか?」
 慎一は疲れたように 「いらないよ」 とだけ答えて溜息をついた。からかわれる立場から、からかう立場へ変わった途端、楽しいと思ってしまう。現金にも程がある。
「慎一も混ざるか?」 話題が終結を迎えたことが解ったのか、成瀬が言った。
「え、いいの?」
「いいんじゃない? 雪子さんも来るし」
 雪子の名前に少しばかり反応を示す。どうしようか、と迷った声を零した慎一は、のほうを見た。どうやらが責任者だと思っているらしい。この様子だと、言い出した人が誰なのか、知っているようだ。は含み笑いをしたあと、ビニールシートを軽く叩いた。 「おいで、おいで」
 責任者の了承を得た、とばかりに慎一の表情が輝く。 「じゃあ、お邪魔します」
 慎一が靴を脱ぐのを一瞥し、電子辞書に単語を打ち込む。検索した結果の中から一番適任な言葉を選び、脳裏で言葉を並べてパソコンに打ち込んでいく。全く、翻訳家も大変だ。
「あれ、さんが仕事してる」 慎一も声音に珍しさを滲ませて言った。 「ちゃんと仕事してたんだ」
「えっ! 慎ちゃんまでそんな辛辣な言葉を吐くの」 今の言い様だと、まるでが呆けながら仕事をしているようではないか。 「酷い、酷すぎる」
 肩を落とすとは思わなかったのだろう、慎一が少し焦ったように付け加えた。 「違うよ! いつも寝てるイメージしかなかったから、つい」
「それはフォローになってないよ」 と笑うのは、久遠だけではなくて、成瀬も同じだった。
「いいですか、慎一くん」 成瀬たちのことよりも、慎一の誤解を解くことが先決だ。これを期に 「さんは凄い仕事をしてるんだ」 と認識を改めてもらわなければならない。このままでは非常に悔しい。悔しさのあまり、慎一だけでなく雪子まで恨みかねない。取って付けたような敬語で、一昔前のナレーターのような声を出して一息に捲し立てた。 「翻訳家と言うのは、人前ではあまり仕事をしない代わりに、家では四六時中仕事に追われる職業なのです。家に居る時間だけでも足りない場合もあり、そんな場合はやむを得ず屋外でも仕事をするのです。常に翻訳の対象である洋書を持ち歩き、モチベーションを上げてから作業に挑むという、非常に根気が強いられる仕事なのです」
 半ば強制的に聞かされていた慎一が、驚き半分呆れ半分に呟いた。 「響野さんみたい」
、お前ますます響野に似てきてないか?」 成瀬は完全に呆れている。
「演説したつもりは無いんだけど」 しかし自分でも響野のようだと思えたため、弁解は消え入りそうな声だ。「とにかく、翻訳家は大変なの。今だって締め切りに追われてるし。解った?」
ちゃんを怒らせると手に負えないことは解った」 流石の久遠も呆れ顔だ。
「かの有名な映画でも 『クロスワードと女は似ている。難解なほど楽しい』 って言ってるでしょう?」 乾いた笑い声を立てたあと、舌をわざとらしく出してやった。そう、女心がそう簡単に解ってたまるか。クロスワードみたいに一つずつを理解していって、ようやく全貌が見えてくるものだ。 「手に負えないと思うのは、知る努力を怠っている証拠ね」
 成瀬と久遠はお互い顔を見合わせて、慎一はというと、不思議そうに首を傾ける。
「その引用が、響野さんらしいって思ったのは、僕だけ?」 久遠が口を開く。
「奇遇だな、久遠。俺もそう思ったところだ」 成瀬が久遠の意見に同意する。
さんって響野さんに影響受けやすいんだね」 慎一が声を立てずに笑う。
 は反射的に口を開いたが、結局何も言えずに顔をしかめた。


 不意に、がパソコンを閉じた。 「あー、もう面倒くさい」
「仕事はいいのか?」 見かねた成瀬がからかいの意を込めて訊ねてきた。 「さっきまで熱心に語っていただろ?」
「半分は訳せたんだし、もう止めた」 これ以上聞きたくない、とばかりに両耳を塞いだ。 「忘れてってば」 響野に似てきたことは。
 全員の不思議そうな視線を感じながらも、早々とパソコンと電子辞書を鞄の中に入れた。話題を変えたい一心で 「喉乾いたな」 と呟く。今日は何度も話題を変えてばかりだ。だが、またしても効果はあったようだ。慎一が乗ってくれた。 「そういえば昼から何も飲んでないや」
「何か買って来ようか?」 と久遠が言ってくれたが、はそれを制止した。時計を見て、視線を土手に上げる。無意識に物質透視を応用して、ほんの僅か向こうの距離を走る自動車を捉えた。見覚えのあるパジェロだ。まるで遠隔透視を使ったみたいで、こんな応用の仕方もあるのかと感心してしまった。
「食料担当がもうすぐやってくるから」 欠伸を噛み締めようと口を閉じたが、根負けした。 「ほら」 とタイミングを見計らって指を差す。丁度車が土手に停まった。
 ドアが開き、響野が先に姿を現す。次に祥子が見えたものだから、思わず久遠が 「あれ、祥子さんも来たんだ」 と零した。
「響野一人よりは、よっぽどましだと思うぞ」 桜を見てはしゃいでいるらしい響野を見ながら、何処か達観した物言いで、成瀬が被せる。その言葉には大いに同意できるため、も首を縦に振った。
 響野と祥子はお互いに両手一杯食料を持って、土手を慎重に下りてきた。
「なんだ、慎一もいるのか」 響野が珍しいとばかりに声を裏返らせた。
「うん、さんに許可を貰ったんだ」
「駄目だった?」 と一応聞いてみたが、祥子は 「いいんじゃない?」 と答えてくれた。さすが、響野と結婚できるほどの寛大な心を持っている。
「これは、これは、ミス・ミリオネアではないか」 に目を向けた響野が、揶揄してきた。 「年末の宝くじで当てた六十万は、もう使ったのか?」
 またその話か、とうんざりした気分になる。 「六十万はミリオンに満たないわよ、響さん」
「私にもそのずば抜けた運を分けて欲しいものだな」 からかうように笑って、 「運じゃなかったか。インチキだな」 と指を差してきた。まるでマジックの種を暴く奇術師のようだ。
 インチキだろうが何だろうが、種は絶対にばれない。 「悔しかったら当ててみろ」 舌を出して馬鹿にしてやった。もっとも、のように透視能力を応用させなければ確実に当てることは出来ないだろうが。
「当ててやるからその目をくれ」 響野の表情は真剣そのもので、呆れてしまった。
 身体を反転させて、成瀬のほうを見る。視線だけで 「あたしは響さんほど図々しくない」 ことを伝えると、察してもらえたようで声に出さずに笑い出す。隣の慎一が不思議そうに成瀬を見た。
「成瀬さん、どうしたの?」
には悪いことを言ったな、と思っただけだ」 と答える割には、笑いすぎではないだろうか。
「祥子さん、喉乾いたー」 響野の隣に座る祥子に両手を伸ばす。祥子が微笑むのを見て、ああ、何て綺麗な笑い方をするんだろうと思った。こんな女性が響野の隣に座っていいのだろうか。一つ一つの仕草は見習いたいと思うが、祥子の趣味だけは参考にするわけにはいかない。
 祥子が「何が良い?」 と聞きながらクーラーボックスを開けようとしたのを丁度響野が見たのか、それを素早く奪って意地の悪い笑みを浮かべた。 「私がやろうじゃないか」
「えー、響さんが?」 あの意地悪な笑みを見るだけで、そこはかとない不安を覚えてしまう。 「何か毒でも盛る気じゃないでしょうね」 それであたしの目を抉るとか、と続けると、響野は下唇をぬっと出した。
「そんなことをするわけが無いだろうが」 そもそも毒を用意するのを忘れた、と続けたのは恐らくの聞き間違いでは無いだろう。
 言い知れぬ予感をよそに、響野はたちには背を向けて、クーラーボックスから飲み物を出している。何故背を向く必要があるのだろうかと疑問に思ったが、敢えて放っておくことにした。これ以上響野と喋って感化されては困る。
「そういえば、雪子さん遅いね 」久遠の言葉に反応するように、鞄の中から携帯電話を取り出して時刻の確認をした。もう七時が来る。派遣社員にも残業は付きものなのか、と感心してしまった。
「帰りも遅いんだ、最近」 慎一が肩をすくませた。 「仕事が忙しいんだって」
「派遣社員も大変なんだね」 雪子の飄々とした表情を思い浮かべ、会社との上下関係や残業などからは無縁だと思っていた自分の考えを改める。
 翻訳家も同じくらい大変なんだよね、と笑いながら呟いた久遠の声は、しっかり聞こえていた。さり気なく手を上げ、重力に乗せて隣に振り下ろす。ばしっ、と乾いた音が響いて、久遠の悲鳴が上がった。 「痛っ! 何するのさ、ちゃん」
「私の意志じゃないよ。桜に憑く幽霊の仕業」 と意味の解らない場所へ責任転嫁してやった。案の定、久遠は意味不明だと言いたげに顔をしかめる。事情を知っている成瀬と慎一が笑った。
「烏龍茶だぞ、ミリオネア」 響野が満面の笑みでコップをよこした。
「しつこいって」 この人はミリオネアの意味が解って言っているのだろうか、と疑いたくもなる。
 コップを受け取り、無意識に中を覗く。響野が何か妙な飲み物でも入れていないか、と思ったのだが、並々と注がれていたのは意外にも普通の烏龍茶だった。白いコップに鮮やかな茶色が目立つ。少し安心して、それを傾ける。飲み込む音が聞こえたと同時に、ひやりとした喉越しを感じる。烏龍茶の苦味の中に、一瞬、味わったことの無い異様な味が混ざっていたが、気のせいだったのだろうか。
「これ、烏龍茶よね」 毒だったりして、と冗談めかして言ったが、訝しそうに空になったコップを見る。
「烏龍茶に違いないぞ」 響野は尚も顔を綻ばせながら、そう言った。 「まさか、味が分からなかったのか?」
 そういうわけじゃない、と反論しようとしたが、どういうわけか、上手くいかなかった。途端に視界が反転、いやそれ以上回転したような気分になる。まるで頭上に猫でも乗っているかのような感覚に陥り、あまりの重さに、ふらふらと安定させることが出来なかった。
 あれ? 可笑しいぞ? 疑問に答えることもままならない。
 眠気のような、心地よさがを襲った。無意識に瞼半分が目を覆う。思考回路がショートを起こしたことすら気付かなかった。
 ふわあ、と盛大な欠伸をして、ぼんやりと視線は響野を捉える。綻んでいた顔は目一杯緩み、今にも大笑いしそうな表情が不思議に思ったが、それよりも笑いがこみ上げてきた。気付けば、大きな声で笑っていた。
「なにー、その顔」 あはは、と笑うと、その声に反応したのか、響野が満足気に頷いている。
「何が可笑しいんだ?」 成瀬が視界に入った。不思議そうに小首を傾げている。しかしすぐに目を見開いたかと思うと、目を伏せて、次に響野のほうを見た。 「に盛ったのか?」
「毒は盛ってないぞ 」持ってないからな、とくだらない駄洒落を言って、これ以上ないほど楽しげな笑みを見せた。別に面白くもなんとも無かったのだが、笑いが止まらない。
「そうじゃなくて、酒を盛っただろ」 の笑い声に、呆れながらこめかみに手をやる。 「未成年だぞ」
「この世を蔓延る未成年は、みな酒の味を経験しているんだ」 なあ久遠、とさり気なく話題を振った。久遠はと言うと、釈然としない表情で、やがて頷く。 「僕が言えた義理じゃないよ」
「まったく」 知らないぞ、とばかりに響野を睨んでいる。怒っているのだろうか、と敏感に空気を嗅ぎ取ってしまったは、途端に笑い声を止めた。泣きたいわけでは無いのに、無性に悲しくなって、涙がこみ上げてきた。 「成さん、こわいー」 涙が止まらないが、別に止めようとも思わなかった。
 流石に様子が変だと思ったのか、慎一が素っ頓狂な声を上げた。 「ちょっと、さんどうしたの」
「お酒って、人をこんなにも変えるんだな」 張本人の響野は反省するどころか、実験を賞賛するような声を出す。
「あなたにも盛ってあげたいくらいよ」 隣の祥子が溜息をついた。 「人格を変えて欲しいわ」
「なに、私は酒に強いから酔うはずがない」 響野は胸を張る。
 話の中心に居ながらも、状況が把握できないは、響野から離れるように久遠に抱きついた。 「響さんきらーい、成さんこわーい」 と口に出している内容も自分では良く解らない。
「一体何を盛ったのさ」 泣き付くの頭を撫でながら、久遠までも呆れた視線を送った。
「焼酎だろうな」 響野をこれ以上喋らせたくないのか、成瀬が横に入る。 「大方、烏龍茶にホワイトリカーを混ぜたんだろう」
「ホワイトリカー?」 知らない語源に興味が湧いた。あっという間に涙も止まり、抱きついていた久遠を力の限り押し飛ばしてしまった。久遠の悲鳴と頭を打つ音が聞こえたが、それよりも好奇心の方が優先されたようだ。平静な自分が見ていたら、必ず 「作家として沢山の言葉を覚えたいのよ」 と弁解をしているだろうが、アルコールに侵食された頭では何も考えられない。仮に考えられたとしても、呂律が回らなくなって上手く伝えられないだろう。
「無味無臭の焼酎だ。本来は果実酒のベースになるもので、未成年の烏龍茶には混ざらない」 成瀬が非難するように響野を見る。 「どう収拾をつけるつもりなのか、教えて欲しいよ」
「収拾なんてつける必要ないだろ」 響野は揶揄するように反論した。 「大体、はもう二十歳が近いんだ。酒も飲んだことがないなんて、信じられないぞ。今時の若者なんて酒は愚か、煙草やセックス、酷い奴は薬にまで手を出している始末じゃないか。薬と言っても、体調を崩したときに飲むような、生易しいものでは無いぞ。そう考えれば、私は大人にするために知恵を貢献したんだ。には感謝してもらいたいくらいだな」
 つらつらと出鱈目を紡ぎだす響野を見ながら、は何故か解らないが拍手を送った。 「響さんありがとー」 と、感謝の言葉まで述べてしまった。
「言うに事欠いて」 と後頭部に手を当てたまま、久遠が呟いた。慎一はもはや呆れ果てて、言葉も出ないようだ。
 優越感に浸っている響野の横で、祥子は額に手を当てて 「もし、ちゃんが覚えてたら、酷く後悔して自殺してしまうわね」
「あのな、お前達はを過保護に扱いすぎだ」 批判に耐えかねたのか、響野が煩わしそうに方耳を塞いで言った。 「 『青年は教えられることより刺激されることを欲するものである』 と、ドイツの有名な詩人も言っているだろうが」
「刺激の対象が違うだろ」 成瀬の声を聞き流したは、土手の上にセダンが止まったのが見えた。どうやら気付いたのはだけだったようだ。車から出てきた人物を目に入れた途端、嬉しそうに微笑んだ。 「あーっ、雪ちゃんだ!」
 酔っ払いは思いもよらない行動に出る。立ち上がったは、裸足のまま走り出した。それには成瀬たちも驚いたようで、慌てて後を追おうと立ち上がり、目で追った。
 車から降りた雪子は満面の笑みで走ってくるを見て、さぞかし後ずさってしまっただろう。
「きゃー」 と甲高い声を上げながら走っていたが、足が縺れたのか、はたまた草に足を取られてしまったのか、そのままの勢いで草原にダイブしてしまった。ばたん、と大きく倒れた音が、夜の風を微かに揺らせた。
!」 あっという間の出来事に唖然とする間もなく、雪子が駆け寄る。 「大丈夫?」
「あはははー」 額がほんのり腫れあがったが顔を上げ、 「面白ーい」 と叫ぶ。
 雪子が眉間に皺を寄せるのも無理は無かった。彼女は今までの出来事を知らない。 「どっか変なところでもぶつけた?」
「大丈夫だよ」 と明るい声で叫び、よろめきながらも立ち上がる。その頃には成瀬たちも駆け寄っていて、彼らの心配気な表情を見ては再び笑い始めた。 「慎ちゃーん、雪ちゃん来たよー」
 名指しされた慎一は苦笑いを浮かべている。雪子が訝しそうに 「慎一、どうして此処にいるの」 と訊ねたが、答えを得ることは出来なかった。
 一人桜の下で笑い転げている響野を見つけたのか、の瞳孔が少し開いた。尚も笑い声を上げながら、駆け出した。酔っ払っているとは思えないほどの正確さで響野の前までやってきたは、満面の笑みのまま、両手を突き出す。響野が顔色を変える間もない。
「たんこぶは響さんの所為じゃーん!」 いつも以上にのんびりした声でそう言って、駆け出した速度のまま、今度は響野の身体を押した。避けることも出来なかった響野が、情けない悲鳴を上げて倒れこむ。機械を踏んでひび割れる音と、地面に倒れこむ音が、大きく響き渡る。一連の様子は、苛められっ子が苛めっ子に仕返しをするそれと、酷く似ていた。
 きゃはは、と甲高い笑い声を出しながら腹を抱えて笑うと、あまりに突然の状況に放心状態のまま倒れている響野を交互に見た雪子が、掠れた声で訊いた。
「成さん、何が何だか解らないんだけど」
「解らない方が幸せな場合もあると思うぞ」 溜息をついた成瀬が、力なく答えた。
「仮にこの出来事をちゃんが覚えていなくても、あの人に責め立てられて自殺してしまうわね」 祥子が肩をすくめて呟いた。


 翌日、花見でのことをさっぱり覚えていない上に「原因不明」の頭痛に襲われたは、覚えの無いアクシデントで半壊したノートパソコンを見て、祥子が言っていたように、 「自殺」 の考えを過ぎらせるのだった。



□ author's comment...

 もっと早く完成させるはずだったのに・・・お花見シーズンが終わってしまった!
 正直のところ、を酔わせたいがために書いた話です。・・・あはは。
 雪ちゃんをもっと登場させるつもりだったのに。本当に彼女は動かしづらいなぁ。
 「誰」を狙ったものでもない、賑やかな花見(しかも夜桜)です。
 ちなみに7枚分。いいなーたち・・・私も花見したかったよう。

 date.070428 Written by Lana Canna



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