■ 秒速340mで鳴り響く音楽が、物語を美しく染める
放課後、教室へ帰ってきたは、盛大な溜息をついた。
「、どうした?」 レイリがいつに無く、心配そうな表情を見せた。同い年の女性にしては精悍な顔をした彼女は、両親が願いを込めて名付けた 「怜悧」 に相応しい聡明さを持っている。ぶっきらぼうな口の利き方だが、それなりの説得力がこもっているときもあって、にとっては頼もしいアドバイザーとも言える存在だ。
「きっとピアノ科の先生にいびられたんだよ」 怜悧の隣では、同じく友達であるハチが嘆いた。彼女の本名は早山知佳といい、や怜悧に懐く姿が、まるで犬が飼い主にじゃれつくように見えることから、頭文字だけを取って 「ハチ」 と呼ばれていた。友達には忠実だという点も、かの有名な 「忠犬ハチ公」 と同じ呼び名に至った理由かもしれないが。
怜悧の前の席に座った途端、再び溜息が流れ出た。 「あたし、あの先生嫌い」
「え、誰?」 ハチだ。同じピアノ科を専攻している彼女は声楽科の怜悧と違って、教師の名前から人物が割り出せる。
「今野先生」 呻くように答えた。
途端、友達二人が顔をしかめた。 「あー、あいつだね」
「音楽史も担当している奴か」
怜悧の声に頷きながら、今野の姿を思い出す。教師にしてはまだ若く、三十歳半ばだと聞いた。だが、外見はもっと年を食っているように見えた。少なくとも、黒澤と同年代だなんて到底思えなかった。
「でもあいつ、ピアノ上手くないんだって?」 と、顔をしかめて吐き捨てた怜悧が、には愉快極まりない。 「教師になったのも、政治家のコネだったりして」
「うわ、最低」 苦々しい表情を隠しもしない。 「コネクションほど惨めなものは無いわ」
「コネクション?」ハチが首を傾げる。「ちゃんって、たまにきっちりした言葉を使うよね」 と言われ、つい言葉を詰めた。これも黒澤の影響だ。もしも彼がこの場に居れば、真剣な顔で 「『コネ』 なんていう日本語は無い」 なんて言いそうだ、と想像してしまった。
ハチの素直な疑問にも苦笑しながら、怜悧が話を戻した。 「で、その今野に何されたわけ?」
我に返る。じわじわと先ほどの光景が思い出され、怒りすら湧き始めた。 「そうなの、さっきレッスンが終わったときよ。今ね、『ノクターン・第五番』
を弾いてるんだけど、あの先生煩くて」
「 『第五番』 って、ショパン?」 ハチがけらけらと笑って、 「ショパン好きだよね、ちゃん」と付け加えた。
好きなんだからいいじゃない、と言いたかったが、話の腰を折るわけにも行かず、仕方なく進める。 「怜悧、ショパンの 『ノクターン』 を全部聴いたことある?」
「あるわけ無い」 愛想なく答えた。無理もない、怜悧は声楽専攻だ。
「じゃあハチは? ピアノ科専攻じゃない。ある?」
「無いよー。だって、凄く長いじゃない」 ハチが顔をしかめた。 「大抵、遺作が何作か抜けてるアルバムばっかりだし」
「そうでしょ?」 の安堵混じった笑みは、自分の考えは間違ってなかった、と納得しているものだった。 「あたしも無いわ。それでも弾ける」
いい加減内容が掴めない会話ばかりで、怜悧が焦れてきた。 「何か嫌味でも言われた? 早く言わないと帰るよ、わたし」
「あ、ごめん」 と無意識に謝ってしまった。 「実はあの先生、レッスンが終わって第一声が 『さん、ノクターン全曲を聴いたことある?』 だったの。無いって答えたら、笑いながら『通して聴いて、初めて良い曲が弾けるんだよ』 なんて言うのよ。信じられる?」
「無神経な一言だね」 ハチが頬を膨らませて反論した。 「わたしたちは今野と違って、時間が足りないほどしたいことがあるっていうのに」
「そうそう、第一ノクターン全曲集なんて大型CDショップでも売ってないわよ」
言い過ぎかと思ったが、実際CDショップから 「クラシック音楽」 が失われつつあるのは本当だった。海外の奇抜な音楽や、トランスミュージック、さらにはヒーリングミュージックなどに押されたクラシック音楽は、今や若者の中では最も人気が無いかもしれない。もっとも、軽薄な若者が嫌いなは、クラシックの良さを解ってもらいたいなんて微塵も思わないが。
の表情が面白かったのか、いつも仏頂面の怜悧が笑みを見せた。
「何?」
「いや、あんたの考えることが何となく解ったから」
その言葉の真意を聴こうとしたその時、の後ろを何かが通った気がした。微風が流れる。何だろうと振り返る前に、ハチが気付いて頭上を見上げた。
「あれ、渋谷じゃない」 心なしか、の後ろの人物をからかうような口振りだ。
振り返って、目線を上げた。見慣れた男子クラスメイトの顔が映る。 「本当だ、渋谷くんまだ居たの?」
「失礼だな」 と呟いた渋谷は、仙台駅周辺に集まる若者のような軽々しさを感じさせる風貌だった。茶色に染めた髪を立て、着崩した制服を着用している姿は、普段なら嫌悪を感じるところだ。それでも渋谷と親しく出来るのは、彼が綺麗な音色のピアノを弾くことを知っているからだろう。ピアノが好きな人間に悪い奴は居ない、という古びた考えを持っているは、精一杯譲歩しているといっても過言ではない。
渋谷の視線がの方を向いた。 「お前さ、今度の課題、ノクターンなんだろ?」
「そうだよ。もしかして今の話を聴いてたの?」
「いや、今野から聞いたんだよ」 痛々しげな笑みを向けられた。 「俺もちょっと前までやらされてたんだよ」
怜悧がにこりともせず、 「お仲間じゃない。良かったね」
「笑えませんって」 と言いながらも、は苦笑いを見せた。 「じゃあ渋谷くん、ノクターン全曲集なんて持ってない?」
「そう言うと思ったよ」 くすくす、と含み笑いをしながら、渋谷が何かを渡してきた。CDのようだ。良く見ると、ジャケットに 『ノクターン全曲集』 と書かれているではないか。 「ほら、貸してやるから今野にいびられないよう頑張れ」
「いいの?」 つい頬を綻ばせた。まさか身近に持っている人が居るなんて、予想していなかった出来事だけに、嬉しさがこみ上げる。 「やった、渋谷くん有難う!」
見かねたハチがつまらなさそうに呟いた。 「ちょっと渋谷、わたしのちゃんを餌付けしないでよね」
「いつからハチのものになってるわけ」 怜悧が呆れ果てたように肩をすくめた。 「でも気をつけないと、渋谷は手が早いことで有名らしいよ」
ハチが渋谷を睨む。渋谷はと言うと、焦ったように 「そんなの噂だけだろ」 と否定した。
それよりもには 『手が早い』 の意味が良く分からなかった。他の全員は知っているだけに、訊ねるわけにもいかない。こんなとき、いつも世間知らずな自分がもどかしい。
仕方なく、話題を変えるように 「でも、あの辛さはやらされた本人にしかわからないのよね」 と溜息をついた。
「そういえば、ちゃん」
「何?」
「今付き合ってる人って、どんな人?」
からかうような笑みをしたかと思うと、何を訊ねるのだろう。暫く意図がつかめず、どうにか 「つ、付き合ってる人?」 と答えたのは数十秒経ってからだった。 「え、そんな人居ないよ」
「今日のわたしは、どんな嘘もお見通しだよ」 不敵な笑みのまま、ハチは身体を背もたれにつける。 「今時居ないわけ無いって。ちゃん、もてるんだし」
もてる? そんな日本語あるのかな、なんて思ったが、それよりも他の言葉に引っかかった。 「ということは、もしかして二人とも居るの?」 彼氏、と続けた。
視線を怜悧に向けると、彼女は飄々とした態度のまま首を縦に振った。 「居るよ」
「えっ、どんな人なの?」
「大学生だけど」 淡々と答える中に愛情は感じられないが、怜悧の表情が少しだけ綻んだことは分かった。
まさか居るなんて思いも寄らなかった。思わず声が裏返る。 「嘘! じゃあハチは?」
「わたしは公務員の彼がちゃんといるよ」 能天気な声だが、には十分衝撃的だった。 「年上と付き合うのが、高校生の醍醐味だよね」
「そうなの?」 友人二人の言葉を聞きながら、自分は本当に高校生なのだろうかと自問してしまった。 「年上に憧れる年頃だっていうのは、本に書いてたけど」
「知った理由が 『本』 なのが、らしいわ」 怜悧が堪えきれずに破顔した。
「でも、ちゃんもいるでしょ?」 再びハチが小悪魔のような表情を向ける。 「だってわたし、見たんだからね」
これにはも怪訝な表情をした。 「見たって、何を?」
「先週だったっけ? ほら、夕方くらいから土砂降りになったときだよ。アーケード通りで男の人と雨宿りしてたでしょ」 通りかかったんだけどね、と続けた。
土砂降り? の脳裏に先週の光景が浮かぶ。確かそのときは、学校帰りに黒澤と会っていたはずだ。木々が 「激しい雨が降る」 と教えてくれて、事前に凌ぐために黒澤を引っ張ってアーケード通りに行った覚えがある。 「え、もしかして黒澤さん?」
「へぇー、黒澤さんって言うんだ」 ハチが揶揄するように言った。隣の怜悧が興味深げに 「どんな人?」 と訊ねている。
「ちょっ、違うってば!」 思わず声を荒げてしまった。 「そんな、恐れ多い」
「恐れ多いって、どういう意味?」
思わず言葉を詰める。どういう意味かと訊ねられると、説明し難い。漠然とした気持ちをどうにか言葉にすると、 「憧れ、かな?」 がぴったりだった。 「とにかく、憧れているだけよ。 『恋人』 っていう言葉よりももっと深いんだからね」
目の前の友達二人が、お互いの顔を見合わせた。
二人が何を考えているのかも知らないまま、は先ほどのハチの言葉を思い出す。どんな嘘も暴けると言っていたが、に恋人が居ない今、それ自体が嘘だったというわけだ。そもそも、人の嘘が見分けられる人物なんて居るわけが無い。
と思ったが、早くも考えを改める。 「やっぱ居るかな」 現に自然の声が聴こえる人だって居るのだから。
怜悧とハチに気付かれないように、苦笑した。これは自身に対する苦笑だ。
学校を出ると、この時期には珍しく冷たい風が頬を掠める。耳を傾けたが、何の声も聴こえなかった。どうやら突発的な風だったようだ。
代わりに別の声が聴こえた。わん、と犬が吼えている。 「こんにちは」 と聴こえた。挨拶をしてくれたみたいだ。目を向けると、コンビニの前で繋がれている柴犬が見えた。散歩の合間に買い物を始めた飼い主を待っているのだろう。
「散歩ですか?」 挨拶代わりに訊ねてみると、柴犬が肯定の返事をしてくれた。 「何処から来たんです?」
柴犬はの問いに反応するように、背を向けた。通り過ぎる人々からは、一人が喋っているようにしか聴こえず、怪訝な顔をしている。それも気にならないのは、長年の経験の賜物かもしれない。
「あっちの方です」 と答えた柴犬は、顔だけをに向けた。温厚な口調が際立つ。雌だろうか。 「隣に林があるマンションから来たんですよ」
「林が隣のマンション」 と呟きながら、記憶を掘り起こす。確か、黒澤が住んでいるマンションも、隣に林があると聞いていた。林なんてものが隣にあるマンションなんて、滅多に無いはずだ。おそらくこの柴犬と同じマンションに住んでいるに違いない。
柴犬の前にしゃがみ込んだ。優しく撫でながら、 「ずっと真っ直ぐ歩くと、そのマンションに着きます?」
「えぇ、着きますよ」 柴犬は優しく目を細めた。 「行ってみたらどうですか? わたしはご主人を待ってますので」
「じゃあ行ってみます。有難う!」 柴犬の言葉に甘えて、立ち上がった。手を振り、軽快なステップで歩き出した。
数歩歩いたところで、はたと気付く。そういえば、あの子、あたしが犬と会話が出来ることを驚かなかったな。聡明さにやっと気付き、振り返ると、コンビニから出てきた飼い主らしき男に精一杯尻尾を振っている柴犬が映った。これから散歩を再会するのだろう。良かったですね、と心の中で呟いた。
踵を返して、再び歩く。向かうべき場所は、黒澤が住んでいるマンションだ。
柴犬が言った通り、真っ直ぐ歩くと数十分ほどでマンションに着いた。黒澤が言った通り、本当に隣が林になっている。
「おー、意外と立派じゃないですか」 まるで黒澤に話しかけるように、マンションを見上げながら呟いた。だが、誰からも返事は来ない。それもそうだ。黒澤が傍にいるわけでもないし、マンションはコンクリートの塊で話しかけてくれるはずもない。
玄関の傍に備えついた郵便受けを一瞥する。几帳面な性格である黒澤は、の思惑通り、部屋番号の下にきちんと名前を書いているではないか。部屋番号を確認すると、玄関を抜けてエレベータに乗り込んだ。
「黒澤さん、家にいるかな」 の脳裏に、吃驚した黒澤の表情が浮かぶ。 「何故此処に居るんだ?」な んて言われそうだ。それも面白い。
エレベータの重い扉が開く。まだ夕方だというのに、閑散とした廊下は薄暗かった。夜が好きな黒澤にとってはいいかもしれないが、心なしか不安が湧き上がってくる。
もし、黒澤が留守だったら、どうする? 心の中でもう一人の自分が訊ねた。
「そういえば、 『黒澤さんの家に空き巣に入ってやる』 って宣言した日があったよね」 確かあれも土砂降りの日だった。空き巣に入るなんて宣言しておきながら、ピッキングの方法も知らないではないか。ましてや、黒澤の家すら知らなかったのだ。 「泥棒に向いてないなぁ、あたし」
部屋番号を辿って、黒澤の家の前までやってきた。チャイムを押すと、室内まで音が響いた。予想外に大音量のチャイムだな、と驚いてしまった。
黒澤が出ないときのために、ドアノブをじっくり見つめてみた。しゃがみ込み、至近距離で色んな角度から見る。やはりただのドアノブだ。中央の鍵穴も、何の変哲も無いものだった。開けるにはピッキング用の道具が要るのだろうか?
鍵を開けることを諦めたが立ち上がりかけたその時だった。不本意にも、あっさりドアが開いたのだ。下からドアを見ていたため、それは芳しくない出来事だった。
押し潰される、と反射的に目を瞑った。何も見えなくなったは、迫り来るドアを避けることもできず、思い切り頭をぶつけてしまった。
「痛っ!」 思った以上に大きく短い悲鳴に、自分でも驚いた。あとずさろうとしたが、身体のバランスが取れずに、後ろに身体が傾いた。重力の目論み通り、派手に尻餅をついてしまった。
どうにかスカートは捲れ上がらずに済んだが、後ろに転がるような形でひっくり返った姿を見た黒澤は、目の前の状況が読み込めずに目を剥いていた。驚かせたことは出来たみたいだ。
「かい?」 答えが分かっているくせに訊ねてきた黒澤を、上半身を起こして見上げた。珍しい光景だ。黒澤は、今にも腹を抱えて笑い出しそうなほど破顔していた。
笑われるのは癪だったが、仕方が無い。自分が彼の立場だったとしても、大笑いをしてしまうだろう。苦笑をするべきか、憤怒をするべきか、どの態度を返せばいいか分からなかった。
「何をしてるんだ?」 ドアを開いた光景が未だに忘れられないのか、まだ笑っている。
咄嗟に浮かんだ言い訳を口走ってしまった。 「黒澤さんの家に泥棒に入ろうと思って」
「相手の家の前でひっくり返っている泥棒を初めて見たよ」
「その言葉、からかいの意味で受け取っておきます」 どうやら苦笑いをするほかにないようだ。 「中に入っていいですか?」
ああ、と頷きながらの腕を掴んだ。引っ張られた拍子に立ち上がる。黒澤に手を引かれて歩きながら、訳もなく気落ちしてしまった。やはり高校生らしくない。
廊下を抜けると、二十畳ほどのリビングが見えた。殺風景な部屋は、黒澤の几帳面な性格がそのまま反映したようだった。中央のリビングテーブルと、それを挟むように置かれたソファが目立った。
所在無く突っ立っていると、見かねた黒澤がソファを指した。 「座ったらどうだ」
鞄をソファの傍に置き、腰を下ろした。改めて、室内を見回す。
「黒澤さんらしい部屋ですね」
「それは褒め言葉として成立しているのか?」
「受け取り方によりますけどね」 ふと、部屋の隅に置かれている箪笥に目がいった。上にステレオが置かれている。隣に何枚も立てかけてあるプラスチックケースも見えた。よく知らないアーティストのCDが並んでいるが、おそらくジャズだろう。
「コーヒーでも飲むか?」 いつの間に消えたのか、黒澤の声が廊下から聞こえた。客人を持て成す気持ちはあるようだ。
「コーヒーよりココアがいいなぁ」 小声で呟いた。この声は黒澤の耳まで届いてないだろうが、それでも良かった。家人が判断して出したものは何であれ、美味しく頂くのが礼儀だ。コーヒーは好きではないが、飲めないことも無い。それどころか、黒澤が淹れたコーヒーは美味しいのではないか。そんな気すらしてくるから、不思議だ。
からかい混じった笑みを浮かべながら戻ってきた黒澤は、白いマグカップをの前に置いた。それを持ち上げ、一口飲む。甘く温かい風味が口内を染め上げた。
「あれ、これココアですか?」 と、何とも素っ頓狂な声を上げてしまった。まさか黒澤の許まで声が届いていたとは。
「ココアの方がいいって言っただろう?」 ソファに座った黒澤も、マグカップを傾ける。 「コーヒーが飲めないなんて、知らなかったよ」
「飲めないわけじゃないですよ。ココアは喉に優しいことを知ってます?」 苦味が好きになれないことは置いといて。 「声楽科の友達が言ってたんだから、確かですよ」
「興味無いな」 肩をすくめる仕草が妙に似合っている。余裕のある態度がやけに歯痒く感じてしまった。心の内で舌を突き出してやった。
「黒澤さん、音楽かけていいですか?」 どうにかして歯痒さを振り払いたかった。黒澤の返事を聞かないうちに、鞄に手を突っ込んだかと思うと立ち上がって部屋の隅まで向かった。 「何をかけるんだ?」 と怪訝そうな声が飛んできた。敢えて答えないのが、せめてもの反抗かもしれない。
しんとした室内に、ピアノの音が響き始めた。甘い旋律が静かに聴こえ、その音だけでも音楽に酔わせてくれる。さすがだなぁ、と心の中で詠嘆するほど綺麗な旋律だ。自然と笑顔になる。
「フレデリック・ショパンのノクターンです」
「確かロマン派の音楽家か」 黒澤が綻ばせた。の笑みに釣られたかのようだ。 「俺は音楽に詳しくないが、ショパンは有名だな」
ショパン本人でもないくせに、 「有名」 の言葉が最高の褒め言葉のような気がしてならなかった。教室でハチが笑ったように、どうやら心の奥から慕っているみたいだ。
暫く、話が途切れた。おそらく黒澤も、艶かしい旋律に耳を傾けているのだろう。やがて、四分も満たない第一番が静かに終わりを告げ、第二番が流れ始めた。この曲は黒澤も聞き覚えがあるはずだ。ノクターンの中で、いや、ショパンの作品全ての中で最も有名な曲の一つだから。
ノクターンを聴きながら、数日前の授業を思い出した。今野の音楽史だ。
「諸君、帽子を取りたまえ。天才だ!」 もちろん実際に聞いたことは無いが、当時の真似するように、教科書を丸暗記した部分を続けた。 「ドイツが彼の登場に対してあまり暖かく迎えなかったので、彼の守り神は彼をまっすぐに世界の都の一つへ連れて行ったが、これは結局彼にとって幸いだった。ここでこそ、彼は自由に思索したり憤慨することができた。もし北方の専制君主が、ショパンの作品にはマズルカのような簡単な曲の中でさえ、危険な敵がひそんでいることを知ったなら、音楽などきっと禁止されてしまっただろう」
最後に 「ショパンの作品は、花の陰に隠された大砲である」 と付け加えながら、黒澤を見た。彼は突然のことに驚いていた風でもなく、歌うように流れている曲との声を、何も言わずに聴いていた。
やがて、曲が第三番に移ったときだ。ようやく口を開いた。 「花の陰に隠された大砲、か」
噛み締めるような声だ。 「面白い表現だな」
その表現には、ショパン独特の特徴が含まれている。優しく穏やかな音楽が、次第に混沌へ飲み込まれていくような不条理さだ。
黒澤に表現の説明をしようかと思ったが、止めておいた。ソファに座り、ココアを一口飲む。甘ったるい味は冷めても健在していた。
「たまには、クラシックも良い」 と呟いた声が聴こえ、微笑を浮かべた。
そう、クラシックも捨てたものじゃない。
第十二番が始まったあたりだろうか。
黒澤が淹れ直してくれたココアを優雅に飲みながら、ノクターンに耳を傾け続けていた。
歪んだ旋律から一変、明るく豪華なメロディはショパン独特の作風だ。まるで王宮に流れているみたいで、飲んでいるココアが一層美味しくなる。飛び飛びに奇妙な和音が入るところがまた美しさを引き立たせていた。左手もただの伴奏ではなく、変則的だ。こういった作風は、音の配置を一度間違えただけで、曲全体が台無しになるスリルを伴ってしまう。だがショパンはその作風を自由に操ることによって、夜独特の深みを表現しているのだろう。
夜といえば、黒澤だ。何故かそんな方程式がの中に浮かび上がった。このノクターンは、実は黒澤のために存在するのではないか? そんな思いすら湧き上がる。先入観のせいかもしれない。
視線をステレオから外し、ソファに座ってコーヒーを飲んでいる黒澤を見つめた。何を考えているのか分からない、漠然とした余裕が、何処までも続く夜の暗みに似ているのかもしれない。無意識に先入観の出所を突き止めていると、視線が合った。
「何だ?」
「えっ?」
「熱い視線で見ていただろう」 見透かすような微笑みだ。
思わず頬を赤らめてしまった。顔を伏せる。
「可笑しいなぁ」 溜まらず呟いた。 「動物の気持ちだって分かるのに、黒澤さんの考えだけは分からない」
「が分かりやすいんだ」 からかうような笑いではなく、親しみがこもった笑いが聴こえた。 「そうだろう?」
不服の表情を見せたが、何も言い返せなかった。代わりに、ココアを一口飲む。とろけるほど甘い味を堪能しながら、耳を傾ける。
課題曲のイメージが湧いたような気がした。
□ author's comment...
なっがい!何日もかけたのに、長いだけで内容がない・・・(涙)
あまりに長いので、載せようと思ったネタを一つ削除したほどです。
そのネタが、何とも黒澤さんらしくなくて(汗)だめだ、恋愛感情皆無だ!
さりげなく学校風景が出ました。彼女、音楽科に通ってるらしいです。
こりゃ本当に近いうち、設定をまとめなくちゃなぁ・・・(焦)
date.060930 Written by Lana Canna