Clothes
アリスがホレイショの子を妊娠してはや3ヶ月目に突入した。
彼女はまだいつも通りの生活をしているが、やがて少しずつ子宮が大きくなることだろう。
正直に言って、そこが彼女の今の悩みだったりする。
“今のうちに着なくては” ・・・そう考えた結果、今日の服装はとんでもないものになってしまった。
「行ってきます」
誰に言うでもなくそう呟き、家から出てきた彼女はきっちり鍵をかけた。
そして仕事現場に向かうべく、振り向いて歩き出す。
今日の服装は仕事に行くものとはかけ離れているが、本人は気にするどころか寧ろ楽しんでいるようだった。
黒のミディアムドレス ―― 身体のシルエットがとても綺麗で、裾にレースが付いているフェミニンなものだ。
ヒールの音をカツカツと響かせながらいつもの道を歩く。
実はこの服、アリスの妊娠が発覚したときにはもう注文してしまったもので、当分着れないものだ。
身体のシルエットが重視の服なため、子宮が大きくなると絶対に入らない。
だから彼女は今のうちに着ることを決めたのだった。
高かったんだから、贅沢は言えない ―― アリスの表情は開き直っている。
「やっぱ可愛いわよね、このドレス」
満面の笑みを浮かべて服を見下ろす。
すれ違う男性は皆振り返るほど、彼女は注目を浴びていた ―― 無理も無い。
視線を沢山感じながら、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「さすが、高値なだけあるわ」
・・・どうやら振り向いているのはドレスのせいだと勘違いしているようだ。
確かにドレスのせいでもあるが、彼女が美しく着こなしているからだとは微塵も思わないあたり、彼女は鈍感だ。
しかし彼女は満足気に歩いていた ―― 買ってよかった、そう思いながら。
家を出て、まだそう時間が経っていなかったその時、鞄から定期的な機械音が鳴り始めた。
けたたましい音を立てて鳴る携帯を取り出し、気分がよかったアリスは明るい声で出た。
「はいアリスです!」
『ホレイショだ』
電話の向こうの上司 ―― もとい婚約者は小さく笑いながら言った。
『元気そうだな』
上機嫌のアリスも笑いながら答える。
「そうなんです!」
『つわりは平気か?』
「今のところ大丈夫ですよ」
携帯から聴こえる愛しい声は、とても優しいものだった。
そうか、と少し安堵が混じった声のあと、ホレイショが続けて訊く。
『今何処にいる?』
「出勤中ですよ。家から出たばっかです」
『なら迎えに行くよ』
「え!?」
吃驚した彼女は、ホレイショが近くに居ないのに思わず首を振る。
「いいですよ!忙しいでしょ?」
『移動中なんだ。ついでに拾って帰るよ』
「・・・私は落し物か何かですか?」
呆れた声で答えると、電話の向こうの彼が笑い声を上げる。
『とにかく、3分後くらいに行けるから』
「じゃあゆっくり歩いておきますね」
そう言って電話を切る。
携帯を見つめたまま、アリスは少しだけ考えた ―― まさか心配してくれてるのかな。
妊娠して、彼は一層優しくなった。
今までも優しかったのだが、仕事中まで優しくしてくれるのだ。
とても嬉しいけど ―― 大丈夫なのにな。
アリスは苦笑しながらも再び歩き出した。
それからすぐのことだった。
カツカツ、と、さっきよりゆっくりしたテンポで鳴らす靴音が止まった。
「ハーイ!」
「へ?」
ふと肩を叩かれ、アリスは不思議そうな顔をして振り返る。
すぐ近くに立っていたのはブロンドの髪を短く切っていた今時居そうな男だった。
外見からして “遊び人” の風貌をしている男は人懐っこい笑顔を見せて言った。
「俺さ、ロイって言うんだけど、逢ったことない?」
「・・・いいえ、無いわ」
見たことも無い、勿論知り合いの中にこんな人物存在しなかった。
怪訝な表情になったアリスを、ロイと言った男は笑い飛ばす。
「勘違いか!ついでだから一緒に食事でもどう?」
「は?」
此処で彼女はやっと感知した ―― あぁ、ナンパか。
営業用の笑顔を貼り付けて断るのがアリス流だ。今回もそうやって断った。
「悪いけど、これから仕事なのよ」
「そんな格好で?」
「・・・え」
そうだった、今ドレス姿だったんだ。
この言い訳には相応しくない格好だったことを思い出した。
「いいじゃん、奢るからさ」
男は彼女の手を掴み、強引に引っ張った。
グラッと体が揺れたアリスは睨んでやる ―― ついでに見えた道路に、見慣れたSUVが近づいているのが解った。
掴まれたままだったが、彼女は不適に微笑む。
「・・・妊娠してるの」
「えっ!」
その男は一瞬で顔面蒼白させ、掴んでいた腕を放した。
硬直している男をじーっとみていた彼女は、隣にSUVが停まったのを見計らって一言。
「行っていいわ」
「あ、あぁごめん!」
逃げるように走り去った男を、声に出さず笑っていたアリスは隣を向いた。
「誰だ?」
助手席の窓を開けて、ホレイショが運転席から問いかけた ―― 怪訝な面持ちになっている。
「ただのナンパですよ」
笑いながら助手席に乗り込む。
「大丈夫だったか?」
「全然!妊娠してるって言った途端硬直しましたもん」
小さく笑うアリスに釣られたのか、ホレイショも笑う ―― が、すぐに吃驚した。
「アリス」
「はい?」
「その格好は何だ?」
「ミディアムドレスですよ。可愛いでしょ?」
注文したんです、と嬉しそうに見下ろす。
そんな彼女を見た彼は、はぁとため息を付いて訊き直した。
「何でその格好なのか理由を聞こう」
少しだけトゲがあった声に、アリスは首を傾けながらも答える。
「だって、もうすぐお腹が大きくなるでしょ?今のうちに着ておこうと思って」
単純な答えにホレイショは再びため息。
「そんな格好だからナンパに遭うんだ」
「・・・あ、もしかして嫉妬?」
チーフってば可愛い。
含み笑いをしたのがわかったのか、ホレイショはSUVを道路の脇に止めた。
「あれ?」
急に停止したことを不思議がったのか、窓の外を見たアリスは不意に左腕を引っ張られた。
「ぅわっ」
引っ張られた拍子にアリスは助手席のシートに倒れこむ。
ホレイショはシートベルトを素早く外すとアリスに覆いかぶさった ―― 助手席のシートを倒す。
「チーフ?」
「 “ホレイショ” だ」
「え、ちょっ・・・んっ!」
アリスが言葉を発する時間も与えず、彼は強引に唇を合わせた。
舌を絡め、小さく漏れる声を聴きながら乱暴な口づけを暫くしてやった。
離れると少し息を荒くした彼女が見える。
組み敷いている彼女は頬を赤くしている。
「・・・なんですか、いきなり・・・」
ホレイショは不適な笑みで囁いた。
「 “チーフ” じゃないだろ?今は」
単純な答えだったため呆気に取られたアリスも、柔らかい笑みを浮かべる。
彼の首に手を回して、囁き返した ―― とても甘い声で。
「だーい好きよ、ホレイショ」
優しい笑みをした彼は、右手を彼女の腿に置いた。
途端にアリスの表情が強張る。
「ちょっ、妊娠してるのよ?」
「だから何だ?」
「仕事に行かなきゃ」
「主任は俺だ」
「はぁあっ!?」
組み敷かれているから、分はホレイショのほうにあった。
この日、アリスが遅刻したのは言うまでも無い。