Rainbow
携帯電話を切ったホレイショは、真っ先にオフィスを出た。
相当慌てているようで、表情は緊迫している。
「スピードル!」
丁度AVラボが近くにあったため、ノックもせずに入る。
中で映像解析をしていたスピードルが振り返る ―― 眠そうな表情だ。
「何?」
「ちょっと出てくる。デルコにも言っといてくれ」
「あぁ、解った」
早々とラボを出て行き、駐車場へ向かう。
いつになく早歩きになっているホレイショは、ジャケットから再び携帯電話を取り出す。
素早くボタンを押して耳に当てる ―― カリーの声が聴こえた。
『カリーよ』
「ホレイショだ。ライフルマークはどうだ?」
『一致したものは無し。凶器は不明だわ』
「特定しろ。ちょっと出てくるから何かあったら携帯に連絡してくれ」
『解った』
電話を切り、今度は車のキーを出す。
エレベータに乗り込み、1階のボタンを押す。
ロビーに着く間、ホレイショは先ほどの電話のやり取りを思い出した。
分析結果を沢山持って、ホレイショはオフィスに入った。
犯人が特定出来ない時は分析結果を全て目を通し、整理して再び全容を構成し直す。
行き詰まった彼は今回もオフィスで構成し直そうと思った。
その時、ジャケットの携帯電話が音を立てて鳴り始めた。
結果を机に置いて電話を取り出し、通話ボタンを押して耳に当てる。
「ホレイショだ」
『チーフ!今暇ですか?』
声の主はアリスだ ―― ホレイショが一番大切にしている存在である。
彼女は今ホレイショの子供を妊娠している。
休暇を貰って家に居る筈だが、彼女の声は何処か切羽詰っているように聴こえた。
「いや、忙しい。どうした?」
『忙しいならいいです。じゃっ!』
「ちょっと待て」
電話を切ろうとしたアリスに言い、続ける。
「何だ?」
『えっと、ちょっと来て欲しいなぁって思っただけなんです』
あははは、と控えめな笑い声が聴こえる。
声が何処か上ずっているような気がするのは恐らく気のせいではないだろう。
「何があった」
『え、特に何もないんですけど・・・』
その時、電話の向こうから何か大きな音が聴こえた ―― 誰かの叫び声だろうか?
途端にアリスも大声を出した。
『ひゃあぁっ!』
「アリス!?どうしたんだ!」
『いや、何でも・・・ぅわわっ!』
「アリス!」
明らかに怯えている声だった。
ホレイショは緊迫した声を出して叫んだ。
「すぐ行くから待ってろ、いいな!!」
『えっ!?ちょっ』
彼女の返事も聞かずに電話を切った。
一体、何があったのだろう。
アリスの家で何かあったのは確かだ。
なんにしても一刻も早く彼女の家に向かわなくては、気になって仕事が出来ない。
エレベータが開いた途端飛び出すように歩き出す。
駐車場へ向かい、停めてあったSUV ― “科学捜査班” と書かれている― に乗り込んだ。
キーを回してアクセルを踏む。
一刻も早くアリスの家に向かうべく、警察署を出た。
彼女の家は職場から歩いて15分ほどの場所にある。
マイアミCSIに転職する際、アリスは職場から近い家に住んだらしい。
いつも支度時間に追われることが無いから良いとたまに言っていたことを思い出す。
車を走らせればものの5分で彼女の家に着く。
急いでいるときばかりは、近くに住んでいて良かったとホレイショは思ってしまった。
外から彼女の家を見る ―― リビングの電気は点いている。
ホレイショは玄関前に立ち、チャイムも押さずにノブを回した。
ガチャッと音が鳴って、入ってくださいとばかりにドアが開く。
またか・・・ホレイショは呆れてノブを見た。
鍵が掛かってなかった時が前にもあり、ホレイショは注意したはずだった。
しかし今は彼女の身のほうが心配だ。
ホレイショは中に入り、真っ直ぐリビングへ向かった。
「アリス、大丈夫か!?」
リビングに足を入れると、すぐ大窓とソファが見える。
彼女はソファに座り込んでビデオを観ていた ―― 一時停止をしてホレイショの方を見た。
「チーフ!?本当に来たんですか!?」
「あぁ、心配だったんだ」
叫び声はビデオだったのか ―― ホレイショは安堵の表情をした。
しかし彼を見たアリスの目は潤んでいて、クッションをきつく抱き締めていた。
「何があった?」
「・・・大した事じゃないんです」
クッションを腿に置いた ―― 彼女のお腹が見える。少し膨らんでいて、順調そうだ。
「大した事がないと悲鳴なんてあげないだろ」
「悲鳴あげました?」
恥ずかしそうに上目遣いでホレイショを見た。
思った以上に元気そうで、思わず彼は笑みを零す。
「大声だったよ。だから急いできたんだが」
「あー・・・多分理由はあれです」
申し訳なさそうな表情をして、前方を指差す。
釣られてみたホレイショは、女性の泣き顔の静止画を見た。恐らくビデオだろう。
「何だ?」
「出産シーンを撮ったビデオテープですよ。隣家の夫婦から借りたんです」
苦笑いを浮かべたアリスを、彼は見る。
「あれを観てただけなのか?」
「そうなんです」
「何故俺に来てもらいたかったんだ」
ホレイショの声は優しかった。
アリスは少しの間黙ってたが、やがて恥じらいの苦笑を見せた。
「実は・・・一人で観るのが怖かったんです」
「怖いだと? アリス、君の仕事は何だ」
「うっ゛・・・CSIです」
確かにCSIは山ほどグロい物を見せられる。
出血は愚か、めちゃくちゃに潰れた死体だって見たことがある ―― それよりも怖いものがあるのだろうか。
不思議そうに首を傾けたホレイショを、アリスは見て続ける。
「CSIは死体を見るだけで体験しないでしょ?出産は違います」
「そうだな。だから怖かったのか」
「だって赤ちゃんを押し出すんですよ!?あの女性が悲鳴をあげるんですもん」
思わず私も叫んじゃいました、と苦い表情を見せた。
ホレイショはアリスの手に握られているリモコンを取り、再生ボタンを押した。
再び女性の悲鳴が響き渡る。
「ぅわっ」
アリスは先ほどと同じようにクッションを強く抱き締めて顔を隠した。
ホレイショは何も言わず、真剣な表情で画面を見る。
女性は呻き声を上げ、歯を食いしばりながら踏ん張っている。
もう最後の方だったため、すぐ赤子の鳴き声が聴こえた。
「アリス」
「へっ!?」
「生まれたぞ」
彼の声を聴いた彼女は、ゆっくりとクッションを下げて画面を見る。
女性が白いタオルに包まれた赤子を泣きながら抱いている姿が映っていた。
「凄く嬉しそうですね」
「あぁ、アリスももうすぐ手に入る」
「・・・出産は怖いけど、喜びは体験してみたいなぁ」
その後男性が映る。
赤子に触れ、嬉しそうな笑顔を見せて女性にキスしていた。
「旦那さんも嬉しそう」
「2人の宝物が誕生したんだからな」
「チーフも嬉しいんですか?」
「当然だ」
リモコンで停止ボタンを押し、アリスはホレイショの方を向いた。
「そうだ、検診の時に聞いてきたんですよ」
「何をだ?」
「性別ですよ」
微笑んで続けた ―― 知りたい?と。
ホレイショは彼女に近づき、頷いた。
「どっちだった?」
「女の子・・・私たちの子供は女の子です」
「そうか、女の子か」
彼は嬉しそうに微笑んで、アリスの肩に手を回した。
アリスはホレイショの胸に頭を預け、幸せそうな笑みを浮かべる。
「ねぇ、名前はどうする?」
「そうだな・・・」
ホレイショは彼女の頭を優しく撫でて、囁くように言った。
「 “アイリス” はどうだ?」
「アイリス?確かギリシャ神話に出てきたわよね」
「虹の女神だな」
「・・・綺麗な名前ね」
彼を見上げる ―― アリスの笑顔は賛成の意味を示していた。
「 “Rainbow” って虹以外にどんな意味があると思う?」
「さぁ、知らないな」
「 “幻の目標” ・・・達成できたね」
見上げて微笑むアリスを、とても愛おしくなって。
ホレイショは彼女を包み込むと ―― 何度も唇を重ねた。
暫く抱き締めたままキスを味わっていたホレイショは、ふと携帯が鳴っていることに気づいた。
彼女を腕の中に収めたまま、耳に当てる。
「ホレイショだ」
『チーフ、凶器が特定できたわ。スピードルの映像も解析できたようよ』
「どうだった?」
『被疑者が映ってるわ』
「そうか、解った」
携帯を閉じてアリスを見下ろす。
彼女は柔らかい笑みを浮かべて尋ねた。
「仕事?」
「あぁ。そろそろ戻るよ」
「いいなぁ、私も働きたい」
「今日は非番だろ ―― ゆっくり休め」
立ち上がり、玄関に向かうホレイショを送るように付いて歩いた。
ドアを開けようとした彼は振り返った ―― 心配するような表情をしている。
「戸締りを忘れるなよ」
いいな、と念を押され、アリスは苦笑して答えた。
「はぁい。・・・チーフ」
出ようとしたホレイショを呼び止める。
彼は振り返って優しい笑みを浮かべた。
「何だ?」
「・・・なんでもない」
はにかむように笑ったアリスを見つめていたホレイショは、彼女が呼び止めた理由が解った。
そっと両腕を掴み、引き寄せる。
わっ、と声を上げて近づいたアリスはホレイショを見上げた。
その拍子に口付けを交わす。
驚いたが、彼女は目を瞑って受け入れた。
触れるだけ、だが愛が篭ったキスを交わした後、アリスは可愛らしい微笑みを浮かべて言った。
「行ってらっしゃい」
「あぁ、行ってくるよ」