■ アネモネは青天の下
黒く染まった夜空を見上げながら、は帰路についていた。
冷たい寒風が身体に触れるたびに、震えながら 「あーあ、暗くて見えない」と、呟く。遅くまで学校に残ってピアノを弾いているうちに、帰る頃には辺りが真っ暗になっていたのだ。大抵の学生なら驚き、慌てて帰路につくはずなのだが、彼女の歩く速度はあくまで変わらない。
「 黒澤さんに電話で迎えに来てもらったらよかったかな 」と考えたが、すぐに改める。「
来てくれるわけ無いか 」多分仕事中だろうし。
寒そうに鞄を抱えて歩く。空を見上げてみると、珍しく雲ひとつ無い星空が広がっていた。まるで見守っていてくれているように見えて、思わず微笑ましくなる。天気が崩れた日が続いていたからだろうか、今日は空気も澄んでいて気持ちが良い。
人気の無い場所を歩くのは流石に怖かったが、は夜の静かな空気がとても好きだった。
やがて、聳えるようにトンネルが現れた。あそこを通れば、もう近所だ。入り口まで差し掛かったとき、ふと、足を止めた。
誰かが何かをしている。そんな気がしてならないのだ。
近づくほど大きく聴こえる、何かを吹きつける音。そしてつんとした匂い。何をしているのかは解らないが、誰かがトンネルの中に居ることは確実だった。
通りたくないな、と思いながらも、は足を進めた。視界はさらに真っ暗になり、少しずつ歩幅が短くなる。いっそのこと走って通り抜けようかと思ったとき、人影が見えた。身長が異様に高いように見えたが、なんてことは無い。脚立に乗っているだけではないか。
脚立に乗って作業をしているのは、男だった。顔は見えないが、恐らくが嫌いな若者だ。たった一人で、黙々と壁に何かを吹き付けている。何をしているのだろう。少し離れた場所に立って、男の様子を観察することにした。
が見ていることに気付いているのか否か、男は脚立から降りて地面に持っていたものを置いた。別のものを持つ。よく見ると、脚立の近くに何本もスプレーが転がっていた。もしかして、絵を描いているのだろうか?
再び、外から聞こえていた噴射音がトンネル内に鳴り響いた。同時に、鼻を突く臭いで思わず咳き込んでしまった。それでも離れずに、じっと男を見つめる。次第には思いを強めた。この人は多分悪い人じゃない、と。
不意に、一台の車がトンネルに入ってきた。トンネル内に響き渡る轟音に、思わず顔をしかめてしまった。その車のライトが、男の横顔を照らす。驚くほど整っていたが、その顔は真剣そのものだった。
車は尚も走りながら、が歩いてきた方向を照らす。思いもよらない光景に、は目を見張った。なんと、壁一面がアネモネの花で一杯だったのだ。スプレーで描かれた花畑は、雲が全く無い青天の中を豪華に咲き誇っていた。色とりどりのアネモネは、まるで本物の花のように意思を伝えてきそうで、鳥肌が立った。威風堂々たる風景に圧倒されたのかもしれない。
「何してんの」
「え?」 声を掛けられたことが信じられなかった。喋れないものだと思っていた。
男は続けた。 「気が散るんだけど」
「あ、ごめんなさい」 気が散ったのは自分のせいなのだから、一応謝っておく。
「綺麗な絵だな、と思って見てたんです」
「そんな事、あんたに解るわけ」 男の方は明らかに敵意を剥き出した。
言われてみれば、確かに専門的なことはさっぱり解らない。うーん、と唸るように呟いてから、
「でも、この子たちに話しかけてもらいたいです」 と続ける。しかしすぐ我に返り、フォローのつもりで
「ごめんなさい」 と謝った。普通は花と会話が出来るわけが無いのだから。
スプレーの噴射音が止まった。視線を感じる。男に怪訝な目を向けられているのが解った。
「あんた、変な女だな」 しみじみと言われた。気のせいか、先ほどまで感じられた敵意が和らいでいる。
褒め言葉として受け取っておきます、と苦笑いを浮かべた。 「何をしているんですか?」
「グラフィティアートを描いてるんだ」
「グラフィティアート?」 繰り返してみたものの、聞いたことがない。 「絵、ですよね」
「そう、壁に絵を描く」 男は、再びスプレーを壁に吹き付けた。 「若い奴らがグラフィティアートを描いて縄張りを主張する。アメリカと違って、描いているのは、ただの
『落書き』 だけど」
若い奴ら、と聞いての顔が嫌悪で歪む。 「若い人は嫌いです」
「何で?」 男の声は依然として飄々としている。
そう聞かれても困る、と思いながらも、は続けた。 「だって怖いでしょう? 頭を金色に染めている人も居ますし、通りかかる度に図々しく話しかけてきますし。それに、自然や生き物を粗末に扱うでしょう? 生花店やペットショップに若い人が働きたがるのは、
『自分には逆らえない』 事を彼らに植え付けたいからですよ」 事実、虐待や火事などでたくさんの動植物が死んでいることを知っていた。
「そもそも、生花店やペットショップ自体が大嫌いです。だから、望んでそういった職に就こうとする若い人が信じられない。可哀想です」
「俺も、軽薄な奴らは嫌いだけど」 と脚立を降りながら、男は同意した。
「そうなんですか」 内心で安堵の溜息をついてしまった。 「逆上されたらどうしようと思いました」
「あんた、面白いな」 空気が微かに振動した。暗くてよく分からなかったが、恐らく男が笑ったのだろう。
「そこら中の女よりも、変わってる」
「褒め言葉には聞こえませんよ」 苦笑いせざるを得ない。 「何と思われてもいいですけどね。あたしは、みんなの代弁をしているだけですから」
「代弁、か」 男は納得するように鸚鵡返しをして、再びスプレー音を響かせた。
「代弁してくれる相手が居るだけで、幸せじゃないか」
まさかそんなことを言われるとは思わなかったため、暫く呆気に取られてしまった。この人、面白い。
「あなたも変わってますね」 自分だって同じ若者の癖に、と指を差した。
怒られるだろうかなんて思ったが、今度は声を上げて笑われてしまった。 「よく言われるよ」
その後、暫く沈黙が続いた。絶えず聞こえるスプレーの噴射音を聞きながら、アネモネの花々を眺める。彼らは、どんな声だろうか。なんと喋るだろうか。生み出してくれたこの男を、どう思うだろうか。聞こえてこない声を想像しながら、視線を脚立の上に戻す。
代弁してくれる相手が居るだけで、幸せじゃないか。彼は確かにそう言った。それはまるで、自分の思いを察し、まして代弁してくれる人がいないみたいでは無いか。そう思うと、妙に納得できた。もし、アネモネが喋ったなら、彼の思いを代弁して、に伝えてくれるはずだ。
「シェイクスピアの 『オセロ』 という戯曲を知ってますか?」
「四大悲劇の一つだろ」 脚立を折りながら、読んだことは無いけど、と続けた。
「確か、オセロが騙されて、浮気されたと思い込んだまま妻を殺してしまう話だったと思うけど」
その通りだった。主人公のオセロが旗手イアーゴーの策略にまんまと引っかかり、妻デズデモーナが浮気をしたと疑い、殺してしまう。のちに誤解だと気付いたオセロは捕らえられ、自殺するという、猜疑心は愛情すらも憎悪に変えてしまう、悲劇だ。
「じゃあ、威風堂々は知ってますか?」
「さすがに知ってるよ」 スプレー缶を選び終えたのか、立ち上がった姿が車のヘッドライトに映し出された。
「エドワード・エルガーが作曲の行進曲だ」 何の関係があるんだ、と言いたげな声だった。
は視線をアネモネに戻し、授業で習ったことを思い出した。 「 『威風堂々』
という名前は日本で付けられた名前で、原題はオセロの台詞から名付けられているんですよ」
青空の中咲き誇るアネモネから、感嘆するような溜息が聞こえた気がしたが、もしかするとそれは男が出したものかもしれない。
「pomp and circumstance」 流暢な英語で言えたのは、音楽史や用語のおかげだろう。意味を説明しようとしたが、先に口を開いたのは向こうだった。
「壮麗で物々しい」 男の声で発せられた意味は、まさに威風堂々に相応しいものだった。
「よく分かりましたね」 と訊くと、 「英語は最近勉強したばかりだから」 と笑った。
「そっちこそ、良く知ってるな」
「音楽の学校に通ってますから」 威張ることでもないのに、胸を張った。また笑われてしまったが、気分は悪くない。
「エルガーは、トルコ軍掃討を命じられたオセロが無事帰還し、祭儀祭宴が催された場面の台詞から名付けたそうです」
その後、嫉妬と猜疑心の塊になり、妻をも殺してしまうほどの憎悪に支配されるなんて、オセロは思っても見なかったでしょうね。そう言いながら、は戯曲の最後を思い出す。真実を知ったかつての英雄は、妻の親戚に捕らえられ、殺されてしまう。それならば、いっそのこと真実を知らなければ良かった、と思ったに違いない。
真実といえば。ふと、気になって、口を開いた。 「どうしてアネモネなんですか?」
噴射音が途切れた。こっちを見ているのだろう。 「アネモネの花言葉は知ってる?」
知っていた。だから訊いたのだ。 「確か、 『真実』 とか 『恋の苦しみ』
でしたよね」
「何でも知ってるんだな」 また、空気が震えた。 「本当に変な女だ」
「あたしだって、何でも知ってるわけじゃありませんよ」 本当にそうだった。よりも黒澤の方が知識が豊富だ。むしろの知識の中に、黒澤の受け売りが含まれていないものは無いといっても過言でもなかった。
何かを引き摺る音がする。目を凝らしてみると、白い脚立が少しずつ移動しているのがわかった。
「オセロもそうなんだけどさ」 男が口を開いた。 「時には知りたくない真実もあるだろ?」
真実は時に残酷な結果をもたらすことは、にもよく分かっていた。動植物と話が出来る彼女は、そのことを友達や教師に打ち明けたら、皆が気味悪い視線を向けることくらい容易に考えられた。
「人間には、多少の秘密は必要だ」 と続けた男も、同じような経験をしたか、ずっとしているのかもしれない。
ああ、だからか。アネモネが青天の中咲き乱れている理由が分かった。
「戯曲では、オセロが妻を殺す前に祭宴が行われますよね」
「ああ」 男はスプレーを振りながら相槌を打つ。カラカラ、と音が響く。
脚立が置かれているところまで近づいた。スプレーの臭いが一層鼻を突く。
「この絵が、あなたの 『祭宴』 ですか?」
スプレーを振る音が途絶えた。こっちを向いたのか、目が合った。暗闇なのに、男の目が光る。
「どうして、そう思うんだ?」
「なんとなく、です」 含み笑いを見せて、視線を伏せた。 「アネモネが喋ってくれました」
暫く男の視線が突き刺さる。怪訝な表情をしているのは、見なくても分かった。やがて、溜息をつくように息を吐いた。
「やっぱりあんた、面白い」
「お互い様でしょう?」 意地の悪い笑みを作った。おそらく見えてはいない。
トンネルの中を、風が吹き込み、同時に声が聞こえた。聞き取ると、携帯を取り出して確認した。
「そろそろ帰ろうかな」
「そう」 と声が聞こえる。まだ気は許していないものの、少しは打ち解けてくれたみたいだ。
「気をつけて」
歩き出そうとしたが、声を掛けられて振り返った。
男は脚立から飛び降りて、こっちを向いていた。 「なあ、あんたの名前は?」
まさか訊かれると思わなかったため、少し戸惑ったが、咄嗟に名前だけ答えた。
「です」
「ふうん、か」 名前を呼ばれた、というよりも、認識するために呟いたみたいだった。
「あなたは?」
「春」 男から発せられた言葉は、四季の春とは全く違った印象を持った。
春、と呟いて認識する。あたしも目の前の人と同じだな、と心の中で苦笑してしまった。
「スプリング、いい名前じゃないですか」
「そうだろ?」 と答えた男は心なしか、嬉しそうな声だった。 「兄貴は泉水って言うんだ」
泉水、と再び鸚鵡返しをした。 「あれ、二人とも英訳したらスプリングですね」
スプリング兄弟だ、と指を差してやった。
挨拶をして、歩き出す。携帯を開いていたが、風に乗って別の声が聞こえてきて、耳を澄ました。どうやら風の声ではないみたいだ。人間の、二十代か三十代の男の声だ。
春が 「兄貴」 と呼んでいる。おそらく別の声の男が、例の 「泉水」 だろう。風に乗って聞こえてくる、二人の話を聞きながら、は意外なことを聞いた。 「ああ、春さんって女性嫌いだったんだ」 泉水は女嫌いの春がと楽しげに話をしているのを見かけて、驚いているみたいだった。それはあたしも一緒なんだけどなあ、と笑みを浮かべる。普段は、学校外で若者と楽しく話をすることはないのだが、春はその辺りにいる若者とは何処かが違った。
「何か許せないものがあるのかな」 あたしが若者を許せないように、と、アネモネの絵を思い出す。もしかすると、許せないものは
「真実」 なのかも知れない。
また何処かで会えたらいいですね。
声に出さずに呟いて、携帯電話を掛けた。相手はさっき風が教えてくれた、近くの家で仕事を終えたばかりの、黒澤だ。
□ author's comment...
すごーくすごーく時間がかかってしまいました。プロットはすぐ出来たのに。
といっても、大半はすぐに出来たので、期間が空いただけですけどね。
重力ピエロより、春と(雰囲気だけ)泉水です。
黒澤さんと仲の良いヒロインは、他の伊坂作品に沢山触れていくつもりでしたので。
あーあ、ギャングの舞台も仙台だったらよかったのになあ。絶対面白い。というか引っ掻き回したい(笑)
というかチルドレンの陣内さんより早くできるとは思わなかった。
・・・・・・ちゃんと春になってますか?不安だ・・・・・・。
date.071113 Written by Lana Canna