Beatrice

 ―― また、会えるよね?

 ―― 会えるよ、絶対。

 粉のように暖かい初雪の中、私達は指を結んだ。



「じゃあまた明日ね、天和」
 ばいばい、と手を振りながら友達は信号を渡っていった。
 その様子を笑顔で見送ったあと、ほうと溜息を吐いた。
 別に気を使うことは何もない。高校も楽しいし、友達も良い奴ばかりだし、多分私は幸せなほうだと思えた。ただ、少し物足りなさを感じて、いつも溜息が出てくる。
 もっと素直になれる相手が欲しかった。傍にいて、私と楽しく話をしてくれる、そんな支えがいない。
「欲張りかなあ」と笑う。周りの人から怪訝な目で見られ、今度は苦笑してしまった。

 支えとまではいかないけど、いつも傍にいて私と話をしてくれた人はいたそうだ。
 ずっと昔、小学生よりも前だ。うろ覚えで顔は浮かばないけど、いつも楽しく話をしたのは覚えていた。名前は確か、 「時枝日嗣」 だった。変わっているからかもしれないが、名前はずっと覚えていた。男女関係無く遊べる年頃だったため、私の一番仲の良い友達だったはずだ。
「そういえば、どうして遊ばなくなったのかな」
 ふと、首を傾げた。年齢が嵩むにつれて、異性の友達は成立し難くなるのは事実だけど、私と彼の場合はもっと前に別れたような気がした。喧嘩別れだろうか?
 何故かすごく気になって、帰って母に訊いてみた。母の説明によると、向こうの家の都合で引っ越してしまい、それっきりだそうだ。
「あんた達、すごく仲が良かったからね。当分元気無かったじゃない」 と、まるでつい最近の出来事を思い出すかのように遠い目をした。 「元気にしてるのかしら」
「さあ、どうなんだろう」 空返事を返しておいた。元気にしているかもしれないし、たとえ不慮の出来事で亡くなっていたとしても、もう私には関係が無いような気がして深く考えなかった。すると見かねた母が呆れるように 「どうでも良さそうね」 と呟く。 「あんなに仲良かったのに」
「だって、今は接点が無いじゃない」 肩をすくめるほか無かった。逃れるように二階に上がる私の背中に、 「冷たいわねえ」 と言った母の声が突き刺さるが、気にしなかった。
 どうせもう会うことはないんだから。
 心の中で呟くと、何故だか分からないけど、すごく悲しくなった。



「そんなところで何してるのー?」
 ジャングルジムの天辺に座っている男の子に向かって、意を決して私は声を掛けた。男の子は振り返り、私の方を見下げると、 「見てるんだ」 と答えた。
 見てるって何を? そう訊ねた私に、男の子は笑顔で手招きをした。こっちまで昇っておいで、と言っているのだろう。その姿を見て、一層興味が湧いた私は、目の前にある棒を掴んで登り始めた。正直、ジャングルジムはあまり好きじゃなかったのだが、男の子と同じ目線に座ってみたくて、一心不乱に登り切った。
 男の子の隣に座った私は、思わず目を瞠った。夕暮れで少し赤らんだ太陽は、沈んでいるのに、まるで家々だけでなく空全体までも紅く染め上げようとばかりに赤々と光っていた。少し染まった空はまだらなのに綺麗で、家に帰っていく子供や大人の影までも美しく見えた。こんな景色をまだ見たことが無かった私は、心から感激して、男の子と楽しく眺めていた。
 それは、少しの間だったけど、とても長く暖かかった。
 ふと、自宅の方向を目を入れると、そこから母が出てくるのが分かった。私を迎えに来てくれているんだ、とすぐに気付く。
「そろそろ帰らなくちゃ」 本当は帰りたくなかったけど、声を落としてそう言うと、男の子も頷いて 「僕も帰ろう」 と立ち上がった。
 まるでさっきまでの時間が無かったかのように感じられて、悲しくなった。男の子は私の気持ちを知ってか知らずか、笑顔のまま手を差し出してきた。その手を取って立ち上がる。彼の後を付いていくように、ジャングルジムを降りる。
 明日も来ていい?と言おうとしたけど、彼に遮られて言えなかった。
「ねえ、名前は?」
「え?」 急に訊かれ、戸惑ってすぐに答えることが出来なかった。 「天和」
「てんな?」
「うん、市川天和」
 男の子はきょとんとしたが、やがて笑い始めた。 「変な名前」
 私は少しむっとする。 「名前、なんて言うの?」
「時枝日嗣」
「ひつぎ?」 そっちこそ、変な名前。そう言ってやると、男の子は笑いを止めて首を傾げた。 「そうかなあ?」
 その仕草があまりに面白かったので、私は思いっきり笑ってしまった。



 学校の窓から見える景色は、お世辞にも綺麗とは言えなかった。
 銀行や商店街に、建設中のビルと横付けしたホールなど、都会独特の風景で、息苦しくなる。その点、夢で見た場所は家の近くとはいえ、家庭的な雰囲気で、とても安心できた。
 そういえば、あんな顔だったっけ。夢で見た「時枝日嗣」は子供ながらに顔が整っていて、まるで女の子のように可愛らしい風貌だった。毎日ジャングルジムの頂点に座っていて、何をしているのか気になっていたから思い切って話しかけたのが、きっかけだった。あのジャングルジム、まだ建っているだろうか。
「天和? なに黄昏てんの」 友達の声で我に返り、振り向く。そうだった、グループで自習してたんだった。
 もしかしてサボってた? と言われ、首を振る。本当はサボっていたけど、と心の中で付け加えておいたが、聞こえていたのか、隣に座っている男友達が 「サボってただろ」 と笑った。
 そういえば、この歳になると、再び異性の友達って成立するようになるんだな。どうして思春期では成り立たないのか、と不思議になったところで、思考を止めた。これ以上考え事をしたら、サボっていることがばれてしまう。
「で、何処まで調べられた?」 と辞書を持つ。現代文の自習は辞書で調べものをするのが殆どなため、気楽で好きだった。
「もう全部調べたよ」 男友達が笑った。 「市川、見せて欲しいか?」
「見せて欲しい」 素直に答えたことが功を奏したのか、 「じゃあ貸してやろう」 とノートを渡してくれた。上から目線なのが少し癇に障ったが、宿題のためと我慢して受け取った。
 黙々とノートを写していると、暇だったのか、友達が辞書を捲り始めた。 「ねー、天和って変わった名前だよね」
「そう?」 と空返事したが、ふと夢の出来事が蘇り、思わず含み笑いをしてしまった。 「そうかもね」
「どういう意味?」
「さあ、知らない」
「小学生の頃に無かった? 『名前の由来を親に教えてもらいましょう』 ってやつ」
「私って忘れっぽいのよね」 幼馴染のことだってつい昨日まで忘れてたし。
「そうなんだ」 と笑いながら、友達は手で辞書のページを捲った。 「あ、あった。 『天和』 って当て字じゃないんだね」
「私の名前調べてるの?」 この暇人、となじってやろうかと思ったが、ノートがあと少しで終わるからそっちに集中した。友達のことは後だ。
「『天和。江戸前期、霊元天皇の時の年号』 だってさ」 友達が揶揄するように続けた。 「 偉い人になれってこと?」
「そうなのか?」 と男友達が笑ったが、私は笑えなかった。何か引っかかるところがあったのだ。
 昔、耳にしたような気がした。意味が分からず、首を捻った覚えがあったのだ。手を止め、辞書を見つめる。もしかして、あの幼馴染と辞書を引いたのだろうか。
「ちょっと貸して」 辞書をひったくる。友達の驚いた声も気にせず、幼馴染の名前を引いてみる。ページを開くと、すぐ目に入った。そこにはこう書かれていた。
「『日嗣。天皇の位を敬って言う語』 ・・・」
 やはりそうだ。私は昔、彼と辞書で自分の名前を引いたことがある。多分、珍しい名前だったから意味を調べてみようという話になったからだ。
 そこまでは思い出せたが、その先が出てこなかった。まるで、もやが掛かっているかのようだ。
「おい市川? 大丈夫か」 辞書に見入っている私を見て、流石に可笑しく思ったのか、男友達が心配そうな声を出した。 「具合でも悪いのか?」
 大丈夫と言った声は、少し震えていた。
 どうしてこんなに気になってしまうのだろう。自分に質問しても、答えは返ってこなかった。



 縺れてしまった綾取りを放り投げて、私は日嗣の手にしているものを見た。
「それ、何の本?」 絵本や童話ではないのは一目瞭然だった。日嗣の両手に挟まった本はとても分厚く、表紙はまるで夕暮れのように赤かった。
「辞書だよ」 と言って、日嗣はあどけない手つきでページを捲り始めた。私は「辞書」という言葉を知らなかったから、不思議そうな顔でその本を見つめていたけど、やがて彼と同じように寝転んだ形で覗き込んでいた。
 何を読んでるのかな。首を傾げて日嗣を見ていると、やがて気付いたのか、笑顔を見せてくれた。 「天和の名前ってさ、変だよね」
「日嗣のも変」 むっとして言い返す。でも彼は怒ることなく「でしょ?」と寧ろ楽しそうに笑った。
「だから、調べてみよう」
「・・・何を?」
「名前をだよ」 ぱらぱら、と捲る手を早めたが、やがて止まった。 「あったよ」
「・・・何が?」 きょとんとして、同じ質問を返してしまった。
「名前がだよ」 日嗣は私の反応が面白かったのか、同じような返事を返してきた。
 私が見やすいように、辞書をずらしてくれた。それを覗き込む。彼の小さな指が差す先を見て、 「ほんとだ」 と呟く。同じ 『天和』 という字が書いてある。でも、意味は難しくて私には分からなかった。
「どういう意味なの?」 日嗣のほうを見るけど、彼も分からないとばかりに首を捻る。
「僕のもあるかな」 持ってて、と言われ、素直に辞書の半分を持つ。日嗣は首を曲げて別のページを捲り始めた。 「あ」 と安堵の声が聞こえた。 「あった」
「どれどれー?」 私は持っていたページを閉じないように注意しながら、日嗣の見ている先を覗いた。確かにそこに、知っている漢字が書かれている。彼の名前と同じ漢字だ。
 読めない漢字を抜きながら、一読してみたが、やはりさっぱり分からなかった。
「どういうことかなあ?」 首を捻って、自分の持っていたページも開いてみる。すると日嗣が、驚いたような声を上げた。まるで謎が解けたかのような笑顔だ。
「これ、見て」 辞書を曲げ、両方の名前を照らし合わせた。怪訝な表情でそれを見つめていたが、やがて私も見つけた。声を上げる。
「同じ字があるよ」 日嗣が微笑んだ。
「うん」 私も微笑む。「私達の名前って同じ意味みたいだね」
 彼と同じだということが、何故こんなに嬉しいのかは分からないけど、本心から喜んでしまった。まるで私と彼が出会うことを予兆していたような、そんな錯覚すら覚えてしまう。
「これからもずっと一緒にいようね」 と、日嗣が微笑みかけ、私も 「うん」 と頷いた。
 離れることは無いと、思ってた。お互いがお互いを嫌うことも有り得ないと思ってた。
 だから、数日後に彼が引っ越すと聞いたとき、私は絶望感を覚えてしまった。



 昼休みも過ぎ、あと少しで学校から開放されるかと思ったら、あと1時間の授業ぐらい受けてやるろうと決意も漲るものだ。
 満腹感の後に来る心地良い眠気に耐えながら、ぼんやりと空を眺めていた。数学教師の自慢気な解説も耳に入らず、空越しに見るのは、今朝見た夢だ。最近、昔の夢を見ることが多くなったな。確か、母に幼馴染の男の子を詳しく聞いてからだ。あの時も、何故あの男の子が記憶から湧き上がってきたのか、分からない。
 もしかしたら何かの暗示だろうか。そう思ったが、すぐに打ち消した。生憎、凡人の私にはそんな能力を持ち合わせていない。
 前の席で、くしゃみをする声が聞こえた。友達に目をやる。実際には彼女の背中に目をやったのだが、丸まっていて、机にうつ伏せていた。眠っているのだろう。いい気なものだ。
 彼女を見ていると、自分まで眠くなってきてしまい、慌てて視線を外に戻す。空は青く、心なしか、雲がところどころで自己主張をしている。街並みは相変わらず無機質で、この中でどれほどの人数がいて、どれほどの人数が笑っているのだろうと思うと、何故か心が潰れそうになった。子供の頃に見た風景では、あまり人が居なくて、皆が笑顔だった。今ではすれ違う人の殆どが、不満げな表情だ。
 あのジャングルジム、確か近くの公園にあったよね。昔の記憶を更に掘り起こしてみる。今日は公園の前を通って帰ろうかな。

「市川」 ふと、自分を呼ぶ声が聞こえた。慌てて振り返ったが、呼んでいたのは隣の席の男友達で、数学教師ではなかった。 「明日の放課後、残っててくれないか?」
「明日?」 用事があるなら此処で言えばいいのに、と思ったが、そんな事を口に出すほど私は無頓着ではない。 「良いけど」
「そっか」 と、何故か安堵の声を上げている。 「一人でいてくれよ」
 何故かと訊きたかったが、その時、数学教師が声を荒げた。私語が聞こえたかと思ったが、どうやら前の席で寝こけている友達に気付いたみたいだ。急いで背中を叩くと、彼女はガバッと起き上がった。かと思うと、 「戦争!」 と叫んだではないか。
 戦争が起こる夢を見るなんて、どうかしてるんじゃないか。クラスの皆は笑っていたけど、私は少し的外れな考え方をしてみた。
 もしかして、彼女は世界の行く末を予知したのかもしれない。もちろん、冗談だけど。

 授業からの開放感は、毎日気持ちが良い。
 友達と何処かへ遊びに行こうかと思うこともあるけど、結局私は真っ直ぐ帰ってしまう。今日は特に、だ。
「あれ、今日こっちなの?」 帰り道の途中、いつもと違う道を曲がった私に驚いたのか、友達が首を傾げた。
「ちょっと用事があるんだよね」 と嘘をついて、友達とは別れた。別に彼女も連れて行って、ついでに話し込んでも良かったのだけど、なんとなく止めた。今までの経緯を話すのも面倒だったというのもあるけど、言いたくなかったというのもあった。昔の思い出には話したいタイプと話したくないタイプがあるのか、と自分で発見してしまったほど、不思議だったけど。
 ゆったりした足取りで、昔遊んだ公園に向かう。外から様子を見たが、まったくと言っていいほど変わっていなかった。ジャングルジムの位置だけでなく、砂場の位置やブランコの長さ、どれもがあの頃と同じだった。懐かしい想いが胸いっぱいに広がる。幼い自分が滑り台に昇る風景が今にも映りそうだ。微笑ましくて、同時に何故か切なくなった。
「彼」 が引っ越す前に、あのジャングルジムで話をしたような気がした。首を捻る。明解な風景を思い出すことが出来なかった。いつもならそんな昔のことすら思い出すことは無いはずなのに。やはり何かの暗示か前兆だろうか。
 もう少し遊具を見ていたかったのだが、向こう側から誰かが来た気配があったから、仕方なく歩き出す。このまま公園にも入らずにぼうっと眺めていると、変質者と疑われるかもしれない、と不安になったのだ。
 誰だろう、と視線を上げる。もし知り合いだったら挨拶を交わすけど、意外にも向こうから来た男は私の知らない人だった。猫のような癖のある髪が特徴的で、白のジャケットがとても似合っていた。背は高かったが、年齢は私と同じか、少し上かも知れない。
 あんな人住んでたっけ? 記憶を掘り起こそうかと思ったが、その時男の方も視線を上げて、目が合ってしまった。男の目が綻んだのを見て、私はまるで何かで射抜かれたような衝撃を覚えた。何だろう、この感じ。綻んだ目は、まるで愛くるしいものを見ているかのようだった。でも、不思議と気味が悪くない。恥ずかしくなって、俯いて通り過ぎる。
 通り過ぎた後で首だけを後ろに向けた。あの視線は無いだろう、あの視線は! 思わず頬が染まるかと思った。誰なんだろう、と疑問ばかりが浮かんだが、男が振り向こうとしたので、咄嗟に首を元に戻した。また目が合ったら話しかけられるに決まってる。
 やがて右折して男の姿は見えなくなったが、暫くあの笑顔が頭から離れなかった。
 なんだこの気持ち。あの人は誰だったの。戸惑いと疑問ばかりが生まれ、私は頭を抱えたくなった。



 一向に気が晴れなかった。元気になれと言うほうが無理だった。
 明日には日嗣は引越しを終えて行ってしまう。街の名前も聞いたことがない、自分の知らない場所に行ってしまう。自分の前からいなくなることを考えるだけで、自分の身体の一部を引き裂かれるような、そんな痛みが胸に響いた。それでも母は残酷で、 「さよならくらい言ってきなさい」 と追い出されてしまった。本当は死んだって言いたくなかったが、このまま会わずに別れるのはもっと嫌だったから、仕方なく彼の家に向かった。
 日嗣は留守だった。彼の母から 「いつもの場所に居る」 という伝言を受け取り、私は迷わず公園に向かった。
 公園のジャングルジムは、初めて日嗣と話をした場所であり、夕方によく来ていたため、二人の間では秘密の場所になっている。遊具の頂点から眺める景色が、特に気に入っていた。公園に入る途中で、花壇に咲いている花に目を向けた。空に向けて咲いている花々は、少しばかり震えているように見えた。いつもより寒いことに気付く。空は曇天で、今日は綺麗な夕日を拝むことは出来ないだろう。
 最後の日くらい、あの綺麗な夕日を見せてよ。
 縋りたかったが、自分が泣いてしまいそうになって、袖で涙を拭う。
 ジャングルジムの上に乗っている日嗣の姿が見えた。その背中を見ると安心でき、同時に物凄く寂しいものに見えた。
 いつものように、必死で登る。最初はジャングルジムが嫌いだったけど、今はそうは思わなかった。日嗣のおかげだな、と実感する。
「日嗣、来たよ」 名前を呼ぶと、彼が振り返る。
「登れた?」
「疲れたけど登れたよ」 と笑った。私の笑顔を見て、安堵したのか、日嗣も笑ってくれた。いつも見る笑顔とは違って、ぎこちないものだった。寂しい、と言っているみたいで、無意識で涙が零れそうになった。
 でも、泣かなかった。
 泣いたら日嗣は絶対に困る。彼が困ることは嫌だった。
「曇っちゃったね、今日」 空を見て、涙が落ちないようにした。 「あーあ、夕日見たかったのに」
「本当だよ」 日嗣も唇を尖らせる。 「最後に見たかったのに」
 最後という言葉が耳に響く。日嗣自身の声から聞くと本当に最後なんだと思わざるを得ないじゃないか、と彼のせいにしてしまいたくなった。
「最初に会ったのもここだよねー」 わざと、明るい声を出した。
 知ってか知らずか、彼は 「急に話し掛けられて吃驚したなあ」 と暢気な声を出した。
「だって、何してたのか気になってたんだもん」
「知ってる」 と、今度は笑った。 「毎日通ってたの、見てたから」
「そうなの?」
「だって此処だよ? 何だって見えちゃうよ」
 知られていたのか。急に恥ずかしくなって、涙も忘れて俯いてしまった。すると、目に溜まった涙が頬を伝って流れてしまった。袖で拭きたかったけど、泣いたことを日嗣に知られるのが嫌だったから、笑ってごまかした。
「あっ」 日嗣がきょとんとした声を上げた。 「天和、見て」
「何?」 声が震えないように返事をする。
「雪が降ってきた」
「え?」
 上を向いた途端、頬に冷たいものが落ちた。丁度涙が零れた方だったから、これを口実にして涙を拭った。
「本当だ」 最後の思い出に、と空が気を使ってくれたのだろうか。
 そして、前を向いた私は思わず目を瞠った。
 粉のように柔らかい雪が、ぱらぱらと辺り一帯に降り注いでいる。雪はとても白くて冷たいのに、気分はとても暖かかった。初雪だ、と隣の日嗣が声を上げた。
「すごく綺麗」 小さく呟いた。さっき花壇で見た花よりも、やがて訪れる春よりも、ずっと鮮やかで美しく思えた。

「そうだ、天和 」ふと、日嗣が私の方を見た。その表情は同い年とは思えないほど大人びて見えた。 「僕さ、お母さんに訊いて来たんだ」
「何を?」
「名前の意味」
 ああ、と小さく嘆く。あの時、辞書で調べ合った日々が浮かび上がった。本当に心地良くて幸せな時間だった、と思ってしまう。
「何かよくわかんなかったよね」と、曖昧な返事を返してしまった。でも日嗣は微笑んだまま、私に優しい言葉を掛けてくれた。
「天和の 『天』 って、空よりもずっと上の、神様が住む場所のことなんだって」 それから、と思い出すように天上を見上げて、 「 『和』 っていうのは、仲良くすることだって」
「そうなんだ」 素っ気無い答えしか出来なかった。これ以上口を開けば、嗚咽が出そうな気がして、我慢する。泣いちゃだめ、と自分に言い聞かすけど、上手くできない。
 日嗣は、私の顔を見たまま、両手を取った。反射的に、ぎゅっと手を握る。
「天和には神様が味方してくれてるんだよ」
 私は堪えきれずに、涙を零す。
「だから、僕のことを忘れなかったら、また会える」
 本当に? と訊きたかったのに、上手くいかない。
「忘れても、絶対に思い出して欲しいな。そしたら僕も会いに来るから」
 子供のような声なのに、大人のような表情の日嗣は、 「ね?」 と言って両手を強く握った。
 大人みたい、と言ってやると、褒め言葉だと受け取ったのか、嬉しそうに 「そうかな」 と答えた。私を置いて成長しないでっていう意味だったのに。

 粉雪で少し髪を濡らしながらも、私達は約束をした。
 絶対にまた会おうね、と。



 終業のホームルームの時間を過ごしながら、ぼんやりと今朝を思い出した。
 夢は相変わらず昔の出来事だった。しかも驚くことに、寝ながら涙を流していた。夢とはいえ、昔の出来事だから覚えてはいるが、幼馴染が引っ越す前日の話だったから思い出しながら泣いてしまったのだろう。本当に辛かったことは、よく思い出せた。逆に、何故今まで忘れていたのか不思議なくらいだ。
 担任の声が耳に入る。どうやら、ホームルームが終わったようだ。席を立つ生徒達をぼんやりと眺めながら、再び考え事に没頭しようかと思ったその時、隣の男友達に声を掛けられた。
「市川」
「何ー?」
「今日のこと、覚えてる?」
 その言葉を聞いて、我に返る。そうだ、残っておくように約束していた。
「勿論よ」
「忘れてたな」 笑われてしまった。言い返そうかと思ったが、実際忘れていたので何も言えない。
「残ってるって」 苦笑いをして、ごまかしておいた。
 帰ろうと誘ってくれた友達に断りを入れ、机に肘を立てて顎を乗せる。のんびりと生徒の下校風景を窓から見ていた。雨が降っているのか、下校中の生徒のほぼ全員が傘を差していた。様々な色が交錯して、上から見ると鮮やかを通り越して気持ち悪くなる。中には、なぜその色の傘を買ったのか疑問になる柄もあった。こうやって見ると、人間って小さくて細々としていることが一目瞭然だ。上から見下ろしていると、自分が本当に神の加護を受けているような気分になった。あの幼馴染に言われたとおりだ。
 昇降口の傘の量がまばらになってきたときは、もう教室内には誰も居なかった。
 男友達の姿が見えないな、と思っていると、彼が教室に入ってきた。担任の下で用事を済ませてきた、と彼は笑う。
「で、話って何」 と言った私を見て、彼は少し躊躇いの表情を見せた。言い辛そうで、だけど言わなければならないと表情が語っている。もしかして、何か都合の悪いことを打ち明けようとしているのかもしれない。それなりに覚悟をして、心なしか顔が強張る。
「実はさ」 前置きを据えて、彼は口を開いた。 「俺さ、市川が好きなんだよね」
 何を言われたのか、判断が出来なかった。頭の中が真っ白になって、口を開いたものの、何も言えない。 「は?」 と呟いたのは、暫く経ってからだった。
「付き合って欲しいなーっと思って」 とおちゃらけた口調で言うものの、男友達の頬は赤い。
 急に言われたことに驚いたが、それよりも私を好いていたことに驚きを隠せなかった。自分は友達のつもりで居たのに、相手は違っていた。やはり、異性の友達は成立しないのか、と思ったら、すごく悲しくなって、泣きそうになった。
「ごめん」 掠れた声で、呟いた。 「ごめん、ごめんね」
 期待に応えてあげられなかった自分が情けなかった。何が神様だ、と心の中でなじる。
「いいよ」 と男友達は笑って言ってくれた。でも、その笑顔は辛そうに見えた。私が彼を傷つけたようなものだった。 「何となく分かってたから」
 涙を零しそうになったが、どうにか堪えた。泣いたからって、彼の気持ちに答えることは出来ない。この気持ちはなんだろう。彼に対する贖罪だろうか。それとも、昔の自分に対する罪のあがないだろうか。
 素直になれる相手が欲しかった。そう思えば思うほど、 「時枝日嗣」 の名前が濃く浮かび上がってきた。

 昇降口に立つと、降り頻る雨が良く見えた。傘も持たずに、外へ出る。雨に打たれたい気分なんだ、とドラマの主人公が言う度に「気障な奴」と思っていたが、今はその気持ちが痛いほど良く分かった。雨に濡れると、傷や痛みが洗い流されるような気がした。
 仕方が無い、といえばそれで終わりかもしれない。私は男友達のことを恋愛対象として見ていなかったし、中途半端な気持ちで応えるほうが失礼に当たる。それでも、少なからず傷つけたことは確かだった。
 今までの私は恋愛なんて面倒臭いと目を背けてきた。でも今になって実感する。本当は嫌われることが怖かっただけなんだ。自分の気持ちと相手の気持ちが違っていて、傷つけ合うことが怖かっただけなんだ。
 いつからこんなに臆病になったんだろう。
 自分自身に問いかけると、答えは簡単に出てきた。幼馴染が引っ越してからだ。
 私は彼が目の前から居なくなったことで、同じように傷ついた。どうしようもなくて、ただ泣くことしかできなかった。傷ついた理由は、彼が好きだったからじゃないか。どうしても好きで、忘れられなくて、でもこの気持ちを伝えることが出来なかったから、名前だけがずっと忘れられなかった。
 ぽっかりと空いた物足りなさは、思えば、あの頃からずっと心の奥底で感じていた寂しさが原因なのかもしれない。
 ぼんやりと歩いていると、何時の間にかあの公園に辿り着いていた。ブランコが止まったまま雨に打たれ、砂場は水を吸って泥のようになっている。雨に濡れたジャングルジムまで向かう。あの頃から成長したにもかかわらず、それは私よりも断然大きかった。
 滑りやすそうな棒を掴み、スカートが翻るのも構わずに、必死で登った。一歩一歩登る度に、頂点を見上げる。昔は彼があそこに座っていた。あの場所に向けて一生懸命登っていた自分が重なっている、そう感じた。一番上まで登りきると、昔座っていた場所に座る。正面に私の家が小さく写って、夕焼けがとても綺麗だったあの場所だ。でも今は薄暗い雲に覆われて、人影は無かった。まるで私の気持ちそのものだな、と呟く。
 髪は張り付き、制服も雨を吸って重かったけど、私はそこから降りなかった。
 昔の自分は此処で楽しく笑っていたはずだ。後ろに寝転がってみると、自分に向かって降って来る雨粒が良く見えた。顔にしきりに降り注ぐけど、それが心地良くも感じる。
「あの日々に戻りたいなあ」
 戻って、彼ともう一度笑い合いたい。無理なことは分かっていたけど、心から願った。

 天和には神様が味方してくれてるんだよ。
 日嗣の声が脳裏に響き渡った。あの頃の、幼い声だ。

 だから、僕のことを忘れなかったら、また会える。
 目を閉じて、今度は素直に訊いてみる。 「本当に?」 と。

 忘れても、絶対に思い出して欲しいな。そしたら僕も会いに来るから。
 思い出したよ、と呟く。だから、会いに来てよ。

「だから、会いに来たよ」
 耳に届いた声は、さっきまでの幼い声ではなく、低い少年のような声だった。
 幻聴が聞こえたかと思ったその時、さっきまで降り注いでいた雨が止んだ。性格には、上半身部分だけが止んでいる。一部分だけ雨が上がるわけもなく、驚いて目を開けると、すぐ傍に青色の傘が目に入った。空の色かと疑ってしまうほど、綺麗な青色だった。
「そんなところで何してるの?」
 昔の私が初めて話しかけた言葉を、からかうような声で発せられたのは、知らないけど何故か懐かしさを感じる声だった。
 あまりに突然の出来事に、声が出なかった。もしかして、と内心で何度も呟く。傘が持ち上がり、ひょっこりと顔が出てきた。 「天和?」 と私の名前を呼んだ人は、見知った顔をしていた。
 昨日、公園の前ですれ違った男だ。優しそうな表情は昨日と同じで、あどけなさは私と同じ年頃を思わせる。何処と無く懐かしさを感じる表情をしていた。
 無意識のうちに、名前を呼んでいた。
「日嗣?」
 すると、男は嬉しそうに微笑む。その笑顔は昔見ていたものに良く似ていた。 「覚えててくれたんだ」
「最近まで忘れてた」 とどうにか答えたものの、放心状態のままだった。まさか日嗣ともう一度会えるなんて思ってもいなかった。でも目の前の人は間違いなく彼が成長した姿だ。幼い頃の面影が残っていて、幻かと疑いたくなる。ぼうっとしたまま腕を触ってみた。すると「天和?どうしたの」と不思議そうに首を傾ける彼がそこに居て、本物だと理解できた。
 本当に会いにきてくれた。胸の中で反芻するたびに、感情が込み上げる。気付けば、涙が溢れて止まらなかった。
「また泣いた」 と日嗣が笑う。「泣き虫は相変わらずだね」
「だって」 声を聞くたびに、涙が溢れる。「今日に限って会っちゃったから」
「『今日に限って』 って、何かあったの?」 日嗣は笑いと止め、きょとんとした。
「あったけど、いいの」 と答える。この瞬間に比べたら、日常の全てが霞んでしまうほど、嬉しかった。
 何も知らない彼は、 「大丈夫?」 と声を掛けてくれた。 「びしょ濡れだし」
 でも、私は笑顔のまま首を縦に振ることが出来た。
「日嗣に会えたから、大丈夫だよ」


 雨はまだ降ってたけど、心なしか空は明るかった。
 私達は思い出の場所で、一つの傘に入ったまま、今までの時間を埋めるように沢山の話をした。
 くしゃみをすると、日嗣が心配そうな表情を向けてきた。 「大丈夫?」
「大丈夫」 生乾きの髪を正して笑みを浮かべた。 「そういえば」
「何?」
「昨日、公園前ですれ違ったよね」 昨日を思い出す。すれ違った男は、髪型や表情のどれを取っても日嗣に間違いなかった。 「なんで話掛けてくれなかったの?」
 日嗣は私を見たまま、笑い始めた。何で笑うのか解らなかった私は、むっとする。
「だって、昨日は気付いてなかったでしょ」
「久し振りなんだから気付かないって」
「僕は気付いたけどなあ」 笑いながら、続けた。 「天和だって気付いたよ」
「嘘でしょ?」 呆気に取られてしまった。長いこと会ってなかったんだから、気付かないのが当たり前かと思っていたのに。 「どうして解ったの」
「だって、あれから忘れたことなんて無かったし」
 天和は忘れてたんでしょ、と指を差されてしまった。その通りなんだから何も言えない。何か別の話を振って誤魔化そうとしたけれど、くしゃみに邪魔された。今度こそ心配げに顔を傾けて、 「とりあえず帰って着替えておいでよ」 と言ってくれたけど、その言葉を受け入れないとばかりに首を振ってやった。
「だって、居なくなりそうじゃない」
「誰が?」
「日嗣が」
 引越しして目の前から消えたとき、私はまるで生きる希望を失ったような絶望を覚えて、泣き続けた。やっと再び会うことが出来たんだから、一度でも目を離したら消えてしまうんじゃないかと思って、不安になった。
 私の考えていることが解ったのだろう、日嗣は含み笑いをした。 「もう居なくならないよ」
「え?」 本当に居なくなったりしない? とは、怖くて言えなかった。雨の音が 「臆病」 と罵っているように聞こえ、耐えるように両腕を抱いた。
 でも彼は笑顔のまま頷いた。 「引っ越してきたんだ」
『引越し』 の言葉に、昔を思い出して肩を震わせた。でも、冷静に考えると、昔とは状況が違う。引っ越してきたって、何処に?考えが纏まらないうちに訊ねた。
 日嗣は面白そうに私を見た後、「この町に決まってるじゃないか」 と答えた。
 ただでさえ彼と再会したことに驚いているのに、さらに私は目を見開いてしまった。 「本当に?」 とどうにか答える。「ずっと会えるの?」
 頷いた彼を見て、私は心から嬉しくなった。ぽっかりと空いた物足りなさが、一瞬で埋まったような感覚だ。これからも会えることを素直に喜んだ。

「今度こそ、ずっと一緒にいようね」
 日嗣の声は、あの頃と同じ幼い頃の声と被って聞こえた。
 私は満面の笑顔で頷く。

 いつの間にか雨は止み、雲間からは光が差し込んでいた。



author's comment...
 CoccOではじめてオリジナル小説を出しちゃったなあ。
 実はブログに載せようと思っていたものです。でも次数制限で載らなかった・・・。
 なので半ばヤケで載せてみました。今考えたら文字多すぎだわなあ。
 この物語のタイトルで分かるとおり、私の大好きな単語です。そして曲名です。
 大竹佑季さんの 「ベアトリーチェ」 からイメージして書きました。
 何度リピートしたか分かりません。でも、優しくて暖かい物語が書けたと思います。

 date.0706-- Written by Lana Canna



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