■ 乗りかけた船には、ためらわず乗ってしまえ
= 成瀬 T =
喫茶店のドアに備え付いた鐘が、けたたましく鳴り響いた。
ドアが乱暴に閉まる音が店中響き渡り、響野と成瀬、祥子が何事かと振り向く。ドアの前に立っているのは、だった。頭が下がっていたが、成瀬には彼女が怒りに震えているのが分かった。
「ちゃん?」 祥子だ。様子を窺うような呼び方だ。
「最悪」 吐き捨てるように呟き、カウンターに顔を向けた。やはり怒っているようだが、それよりも彼女が目に涙を浮かべていることが気になった。
「とりあえず、座りなさい」 響野が諭すように言った。
は響野の態度が気に障ったのか、カウンターに近づきながら、鋭く睨んだ。カウンターの向こうに居た響野が、思わずあとずさったほどの迫力に、悪いと思いつつも成瀬は笑いがこみ上げてきた。
「おい成瀬、笑っていると睨まれるぞ」 響野が言ったとおりだ。が、じろりと成瀬を睨む。悪い、と詫びると、彼女は溜息をついてうつ伏せてしまった。
「何があったんだ?」 聞かずにはいられない。
「を怒らすとは。さては久遠が何かやらかしたな」 響野だ。勝手に納得している。
「あなたが怒らせたんじゃないの?」 祥子が隣を睨んだ。 「いつも話が長いから」
「それはいつものことだ」響野がさらりと答える。自覚していたのか、と驚いてしまった。
突然、周りの会話を聞いていたが顔を上げた。
「あたしの話を聞きたいの? それとも聞きたくないの」 と、珍しく低い声で言った。
こんなに怒りで我を見失っているを見たことが無かった。いつも能天気な笑顔を浮かべて、 「やっほー」 と挨拶をするが当たり前だと認識していたのだ。だが、今の彼女からはそんな雰囲気が微塵も感じられない。誰がをここまで怒らせたのか、と逆に興味すら湧いてきた。
響野と祥子も興味があるらしい。あの響野が黙っていること自体が凄いことだ、と今のは気付いているのか分からないが、とりあえず成瀬も黙って彼女を見た。
「実はね、出版社の帰りのことだったんだけど」 思い出したくも無いのか、顔をしかめた。
「電車に乗ってたときよ。あー、身の毛がよだつ!」
胸の前で拳を作り、叫ぶほどの怒りを耐えるように、もう片方の手がカウンターテーブルを叩いた。カップからコーヒーが零れ、祥子がそれを拭いた。
「出版社って何処にあるんだ?」 響野が話の腰を折る。はまた睨んだが、相手が響野だから仕方が無いのか、と無理やり納得させたように深く溜息をついた。
「東京よ。千代田区」
「電車で行かなくても、車があるだろ?」 話を広げる響野を、は睨み続けている。
「車だと融通が利かない」 の代わりに成瀬が答えた。 「東京は人が多いからな」
「そうそう」 と、が頷いた。 「信号やら人やらで、逆に時間が掛かるのよ。締め切りに間に合わないわ」
響野は一度納得の言ったように頷いたが、すぐに口を開く。
「雪子はどうだ?雪子なら信号に引っかからない」
「あのね、雪ちゃんに何度も下見をさせ、仕事を抜けさせて乗せて行ってもらえ、と?」
はもう一度深く溜息をついた。 「無理に決まってるじゃない」
響野は、まだ何か考えているようだ。どうせくだらないことだな、と成瀬も腹を括ったのだが、見事に予想通りだったことに呆れてしまった。
「それなら新幹線で行けばいい」 閃いたように笑みを見せた。 「新幹線は早いぞ」
「あんた、何言ってんの?」 の反応はやはり悪い。機嫌が悪いとき、響野を鬱陶しく思うのは俺だけじゃないんだな、と成瀬は思った。
「新幹線で行くなんて馬鹿よ、馬鹿」 本日のは不機嫌なため、あしらいが冷酷だ。
「そうか? 一瞬で着くんだぞ」 響野は、なおも食い下がる。 「早く着けばいいんだろ?」
「そうね。響さんか誰かが新幹線ジャックをして、乗客数を著しく減らせてくれればチケットが安くつくから、新幹線で行くことを検討してもいいわよ」
「、最近回りくどい拒否の仕方をするな」 響野が顔をしかめる。 「誰の影響だ?」
「あなたよ、あなた」 祥子は溜息をついた。
「で、電車で何があった?」 成瀬だ。仕方なく、話を戻した。 「いい加減話してくれ」
そうだった、と一言呟き、が続けた。
「電車に乗って、もう少しで到着駅に着くときだったのに」 一度言葉を切り、言い辛そうに項垂れた。
「なのに、痴漢に遭って」
「痴漢?」 響野が意外そうに声を荒げた。 「も痴漢なんてされるのか」
「失礼よ」 そう呟いたは、先ほどと違って元気が無い。
「最低ね、痴漢なんて」 祥子も憤りを感じていた。 「ちゃん、気にすること無いわ」
うん、と頷くも、痴漢に遭ったことがとても嫌だったのか、今度は怒り狂わず、落ち込んでしまった。成瀬には勿論経験が無いのだが、女性にとっては怒りと苦しみが同時に襲ってくるほどの屈辱なのだろう。現に今、が証明してくれた。
「運が悪かった、じゃ済まないのか?」 響野が不思議そうに成瀬のほうを見た。
「 『痴漢をされる』 と言うのは本来、いい女だという証だと私は思っていた」
「俺に訊くなよ」 思わず成瀬が言った。 「俺もお前と同じだ。よく分からない」
「成瀬に分からないことがあるなんて、思えない」
「とにかく、運だけでは済まされないみたいだな」 成瀬がの方を見てそう言う。
響野も成瀬の視線を辿り、を見た。彼女の様子からして 「遭いたくない」 ものだと理解したようだ。
「もう電車なんて乗りたくない」 は祥子からサービスされたオレンジジュースを受け取って、飲み始めた。 「最低よ、男なんて」
「私たちもか?」 思わず響野が口を挟んだ。 「いいか、。男全般がそんな奴だなんて思うのは、お門違いだぞ。世の中には女性に痴漢をする男ばかりじゃないんだ。お前の隣に座ってる奴なんか、一度女に逃げられているんだからな。しかも離婚だぞ、離婚。こいつは恐らく
『女なんて二度とごめんだ』 なんて思っているはずだ」
「お前は俺の代弁者か」 成瀬が苦笑した。 「しかも俺はそんなこと思ってないぞ、響野代弁者」
「もしかして成瀬さん、好きな人がいるの?」 祥子だけじゃなく、隣のも顔を上げている。成瀬に恋人や好きな人がいると、大問題だと言いたげな表情だ。その表情が成瀬には笑えた。
「あ、笑ってごまかした」 先ほどと違い、は興味有り気に呟く。
「成瀬のことはどうでもいい」 響野が成瀬との間にチョップをするように手を入れた。 「これ以上、こいつのことは知りたくない」
「そうね。今はちゃんのことだわ」 祥子が頷いた。 「電車に乗らない発言をしちゃったけど、出版社までどうやって行くの?」
本当に、ころころと話題を変える夫婦だな。響野を批判している祥子も良く似ている、と成瀬はつくづく思った。
はどうやって出版社へ出向くか考えているのか、腕を組んで首を傾げていた。
「んー、響さんがいつ新幹線ジャックしてくれるか、によるなぁ」
「私がいつそんなことをすると言った」 響野の呆れた声が返ってきた。 「そんなことにロマンが見つかるとも思えないな」
「じゃあやっぱ電車だ」 あからさまに肩を落とした。 「嫌だなぁ。また遭いそう」
響野は「被害妄想だ」 と口を尖らせたが、隣の祥子は 「ちゃんなら遭うわよ」と確信こもった声で言っている。やはり、ちぐはぐな夫婦かもしれない、と成瀬は早くもさっきの考えを変えてしまった。
「それにしても、意外だな」 成瀬だ。からかうように言った。 「退けたりしなかったのか?」それこそ響野に睨んだように、と付け加えると、が肩をすくめた。
「あたしもそう思ってた、さっきまではね。でも吃驚して声も出なかった。怖かったし」
「そんなものよ」 と祥子が頷いた。 「男には分からないのよね」
「男に女の気持ちが分かったら、この世に子供は存在しない」
響野が呟いた声は小さく、成瀬には聴こえたが、達には聴こえたか定かではなかった。
は、出版社までどういう経路で行こうかを考えていると、オレンジジュースを飲み干してしまったみたいだ。ストローの悲鳴を聞いて我に返り、ようやく口を離した。
成瀬だけじゃなく、カウンターの向こうに立つ響野と祥子も彼女の様子を見ていたようだ。
やがて、響野が急に笑みを作った。何かを閃いたようだ。ろくでもないことを言いそうだ、と成瀬は頭を抱えてしまった。
「いいことを考えた」 響野がカウンターを出て、成瀬とに近いテーブルから椅子を持ってきて座った。 「次はいつ出版社へ行くんだ?」
「え?明後日だけど」 心なしか、の表情が強張っている。これまでの経験から 「響野がろくでもないことを言う」
ことが分かっているから警戒しているな、と成瀬は思った。
響野の提案は、成瀬自身も蚊帳の外に居られないものだった。
「明後日は、確か成瀬も休みだったな」 まるで子供が玩具で遊んでいるような笑顔を見せた。
「、こいつを連れて行ったらどうだ?」
「はぁ?」 が怪訝な表情を見せた。 「成さんを連れて行くって、なんで?」
「男同伴のほうがいいんじゃないか? 何なら久遠も誘えばいい」 心なしか、響野は成瀬の方へ何度か目を逸らした。
「悲しいかな、私は喫茶店があるから行けないんだが」
成瀬には響野が何度も目を合わせる理由が解っていた。響野なりの気の使い方であり、彼なりの応援だったのだろう。だが成瀬は何も反応を示さず、敢えて解らない振りをした。
「で、でも成さんに迷惑じゃない」 が慌てて言った。 「あたしの問題だし」
「成瀬、お前はどう思う?」 響野が意見を促すが、その不敵な笑みはどう見ても成瀬をからかっているようにしか見えなかった。
成瀬も、響野と同じような笑みを浮かべた。
「珍しく良い案を出したな」 敢えて響野の案に乗ってやる、と心の中で呟く。
「俺なら問題ない」
「えっ!」 響野だけでなく、の視線も浴びる。 「本当に? いいの?」
「休日だからと言って、特にすることも無いからな」
「でもわざわざ、東京まで悪いよ」 相手が成瀬だからか、も罪悪感に駆られたようだ。 「迷惑でしょ」
「、四の五の言わず連れて行ってやれ」 響野が後押しをした。 「こいつも東京の空気を吸わせてやらないと駄目なんだ。東京の野蛮な連中を見て、慎重な性格が改まるかもしれない」
「それこそ、あなたを連れて行って欲しいわ」 祥子が笑いながら口を挟んだ。
「東京の連中を反面教師にして、自分の性格を見直してきてくれないかしら」
「私はいいんだ、私は」 響野が下唇を突き出した。
それでも、なお判断に迷っているは、何度も成瀬の方を見た。控えめだが、視線が 「来て欲しい」 と言っているようだ。目が合うと、成瀬が微笑む。
「ここは響野代弁者の言うとおりにしたほうが良さそうだ」
成瀬の言葉は、には遠まわしに 「連れて行って欲しい」 と言っているように思えた。目を見開いて隣を見た。笑みが映る。その笑みが、何故だか安心できた。
「じゃあ、お言葉に甘えようかな」
の言葉を聞いた響野が、満足気に頷いた。何だかんだ言いつつ、心配していたことが分かり、思わず成瀬は含み笑いをしてしまった。
□ author's comment...
えー、思った以上に長くなったので前編と後編に分けたいと思います。
・・・寧ろ、中編が出来るかもしれません。それほど長くなった!!
この話は、成さんに「ロマンはどこだ」と言わせたいがために書いたんですが・・・まだですね。
前編はWordで4枚分。ページ数だと8ページです。後編が長くて長くて・・・(汗)
date.060724 Written by Lana Canna